<楽しみ方A〜上がって>1.襖で隠せる階段と引き出し、2.床の間〜筍面と狆潜りと鶴の釘隠し、3.階段は3か所に(土間、箱階段、吊り上げ階段)、4.番頭は有効活用〜折畳台・階段に戸棚・店頭チェック、4.襖で隠す仏壇、階段、戸棚、6.玄関の間は中央、7.湯殿・厠にも刀掛け
<楽しみ方B〜上がらず>1.入口の大戸、2.三列六間どり〜玄関の間は店の間の奥、3.土間で裏まで続く、4.番頭の記帳台は折り畳み式、5.部屋内にある蔀戸(しとみど)6.囲炉裏(松竹梅の自在鉤)が2つ、7.屋内にある井戸、8.外から見た玄関
江戸時代の参勤交代で出雲(島根県)の松江藩が利用していた出雲街道の宿場の一つ、新庄宿の中で脇本陣として利用されていました。当時のまま現存する木代邸の内部の説明をします。
パソコン使用20周年記念として2016.4.27作成。
毎年のように行われていた参勤交代で、各藩の大名は江戸と藩とを往復していました。出雲街道(松江~姫路)にある新庄宿が利用されたのは主に出雲の松江藩の大名松平侯の参勤交代です。今の私たちからするとよくもこれほど歩いていけるものだと思うほどの距離(約40〜50km)になります。松江藩の参勤交代の宿場経路と日数は次のようになります。新庄宿は松江を出発されて2日目に到着です。
「松江藩の参勤交代」(松江・江戸の出発年月日一覧、藩主ごとの参勤交代回数及び滞在日数、現代のカレンダーでも表示)
「松江藩の参勤交代と新庄宿の出発・到着月をグラフで見る」
出雲松平藩の専用の飛脚が江戸と松江を結んでいました。
1.七里ごとに中継所を置いていました。
2.出雲街道の美作地内(言い換えれば、岡山県内)では、「新庄」と「久世」と「勝間田」の3か所に置かれていました。
出雲街道の新庄宿(岡山県真庭郡新庄村,江戸時代元禄年間17世紀には「新庄村」として今日まで続いています。)に出雲松江藩の譜代大名松平侯の本陣がある。その斜め向かいにこの脇本陣があります。木代家の家であることから脇本陣木代邸(きしろてい)という。「木代」と書いて「きしろ」と読みます。「名字由来net」によると、全国に「木代」姓は690人ほどで岡山県に30人という数字が出ています。全国順位で10,346位というから多くないようです。さてここでは木代邸の建物の外観と内部の様子を紹介します。
脇本陣(わきほんじん)とは、江戸時代の宿場に設置された本陣の予備的な施設です。本陣だけでは泊まれない場合や、藩同士が鉢合わせになった場合に格式が低い藩の宿として利用されるなど、本陣に差し支えが生じた場合に利用されました。それ以外の時には一般の旅行客の宿泊にも使われたようです。規模は本陣よりも小さくなりますが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもあり、本陣と同じく宿場の有力者が勤めていました。
ウィキペディア「脇本陣」によると現存し公開されている脇本陣は全国で次の6か所
その他、現存する建物として長野県佐久市の脇本陣真山家屋敷や大門宿脇本陣表門(埼玉県さいたま市緑区、市指定有形文化財)があり、復元されたものとして中山道鵜沼宿脇本陣(岐阜県各務原市、2010年復元)、馬籠脇本陣(岐阜県中津川市馬籠、一部復元し馬籠脇本陣史料館として公開している)、舞坂宿脇本陣(静岡県浜松市)があるということです。
本陣の佐藤家の前にある説明版です。
脇本陣の木代邸の前にある説明版です。
脇本陣の木代は分家である。本家木代は出雲の尼子に仕え、尼子の出城である新庄沢城主吉田修理の家臣であった。尼子が滅ぶとともに、武士を捨てここに農民として寛文年間に宿場町並みに居を構えたのである。本家木代はやがて庄屋となり、途中途切れることはあったが、115年間もの長い間、庄屋を務めている。
この本家の娘に松江より婿を取り、幕末に近い安政4年(1857年)に分家ができたのである。分家木代も庄屋を務め、明治になると1871年5月23日(明治4年4月5日)に戸籍法の制定や1872年5月15日(明治5年4月9日)に太政官布告によって副戸長、戸長となり、県会議員にも選出されている。また初代は山田方谷(やまだほうこく)について陽明学を学んでいた。
木代邸は、切妻平入り中二階の建物である。村にとっては江戸時代末期の代表的な建築物なので、文化財指定をし、復元修理ができたのである。間口は八間、奥行き七間(生活部分のみで)の堂々とした建物である。
屋根は石州瓦の桟瓦葺(さんがわらぶき)(江戸時代から普及した瓦の葺き方で、屋根の下板に横桟を打っておき、そこに瓦の端の¬型をひっかける工法。それまでの本瓦葺に比べ隣同士の瓦の重なり部分をも極めて少なくすることができ、また葺き土も軽減化できて屋根の軽量化と経費節減となる)で赤茶色の独特の色合いである。瓦の上には、雪ずり止めの丸太を取り付けていた。現在は雪止め付きの瓦が何列か並べてある。
2階の壁は白漆喰仕上げで、「大壁造り」となっている。「大壁造り」とは柱などが内からも外からも出ないように壁面内に納める壁構造のことである。倉造り、蔵造り、土蔵造りの様式である。
2階の腰は「下見板張り」で、鎧伏せ(よろいぶせ)の黒っぱい杉板張りである。壁の白さとの対照的である。
下屋(したや、家屋の下側)は白漆喰仕上げで、「真壁造り」である。「真壁造り」は柱を表面に露出させ柱と柱の間に壁を納める方式で柱が空気に触れるため防腐面ではメリットがあるが、耐久性を上げるための筋交いを入れにくいのが難点となる。一般住家の壁造りとされている。
1階も「下見板張り」で、鎧伏せ(よろいぶせ)の黒っぱい杉板張りである。壁の白さとの対照的である。
2階には4尺(約1.2m)に一間半(約3m)の親子格子(おやこごうし)の出窓が取り付けてある。細身の堅子(たてご、格子や障子などの縦方向の組子(くみご)のこと)に組み合わせた繊細な感じの京風である。格子窓は、民家の明かり取りと通風に、江戸中期以降から、一般に取り入れられたようである。
玄関の間の2階部分にある親子格子
親子格子は「京町家改修用語集」によると、切子格子(きりこごうし)あるいは子持格子(こもちごうし)などとも呼ばれる格子で、横貫が通常3本ほど通り、縦の格子子に、2種類あり、 太い格子を、親格子子、細い格子を子格子子とみたてて、 これを 親子格子という。切子の数で職業がわかるようになっており、
木代邸の親子格子は親2本、子2本(切子2本)と切子格子の少し変わったバージョンでであるが、これも伝統的な町家格子として京都にもあるようです。
写真は木代邸の平面図です。この写真の中の○番号をクリックするとその場所の写真を見ることができます。
表側・・・店の間、玄関の間、奥の間
裏側・・・居間(いま)、中納戸(なかなんど)、奥納戸(おくなんど)
の三列六間取り(さんれつろくまどり)である。
さらに囲炉裏の間、湯殿、厠とある。
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階段の下部を戸棚にして、日常の大福帳などが保管できるように作られています。現在は畳となっていますが、江戸時代は番頭のスペースを襖で仕切ることができていたと思われます。
番頭が使用したと思われる記帳台は、仕事がないときは、足をたたんで台を倒し、部屋を広く使ったようです。また小さな障子を開け閉めすることで、店の様子を見たり、店から見えないようにしたりすることができます。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲居間の奥側に囲炉裏の間がある。板張りの部屋であり、囲炉裏が二か所もあり、珍しい造りとなっている。冬の間、雪が降り、峠を往き来する者にとっては早く多くの者が暖まれるように、ということもあったのだろうか。
この囲炉裏の自在鍵(じざいかぎ。自在鉤とも)は松竹梅の材を使ってある。上から竹、梅、松となっていて、松で「鯛」をかたどっている。そしてその「鯛」は家の中の方へ向いている。「めでたいものは内へ内へ」ということのようです。私はさらに「めでたいものが入ってくることを待っていたい(「松てい鯛」)」と駄洒落を言いたくなります。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲表の中央部分に、式台があり、そこから上がった部屋が玄関の間であり、仏間である。そこに仏壇がしつらえてある。その仏壇の前で拝み会釈をして奥の間に入るという造りである。
仏壇の天井は碁盤のように桟が入り奥4×横6列の格天井(ごうてんじょう)の形が取られている。
奥の間には床の間があり、床柱の下部には「筍面(たけのこづら、たけのこめん)」が手前が丸い床柱の下部を,床框(とこがまち)の面にそろえて平らに削って木目が見えるようにしてあり、その木目が筍のように見えることから「筍面」とか「筍面付け」「竹の子ツラ付け」「笋面(たけのこめん)付け」とも書く。簡単に、「筍付け」「筍」ともいうようである。
また床の間から床脇へ続くように穴のように造られた「狆潜り(ちんくぐり)」とか「犬潜り(いぬくぐり)」と呼ばれる「吹き抜き(ふきぬき)・吹き抜け」がある。
奥の間の長押(なげし)には釘を隠すための鶴の形をした釘隠し(くぎかくし)が取り付けてある。(本陣には甕の形の釘隠しがつけられていた。)
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲納戸横の廊下を突き当たったところに湯殿がある。今で言う風呂である。湯殿にはいって左側が一段高く造ってあり、脱衣場となっている。その奥の壁面には刀掛けも設けてある。
湯殿には大きな風呂桶を置いている。この桶に沸かした湯を入れて湯あみをしていたのである。
外への出入り口として利用されていた戸口。別の場所で沸かした湯を次々に運んで、湯船を満たしてお風呂に入っていた。
湯殿より奥まったところが厠(かわや)である。右手の戸を開けると個室となる。
厠の個室にも刀掛けがしつらえてある。武士は室内にいるときでも脇差または前差し(短刀)をいつも帯びていたようで、湯殿や厠にも刀掛けが必要だったようです。侍の自宅の厠では刀掛けがあり、そこへ大刀も脇差も掛けて入っていたようで、夜中の厠の時は小刀(脇差)を帯びて用を足していた。(「侍の刀剣」参照)
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲木代邸を入るといくつかの種類の戸に出合える。大戸(おおど)、格子戸(こうしど)、蔀戸大戸(しとみど)、舞良戸(まいらど)などが主なものです。
出入り口に取り付けた木製の大きな戸である。外からは左側が「潜り戸(くぐりど)」となっており、木戸と障子戸がついている。幅一間もある大きく重いものなので保存の意味で動かすこともほとんどなく、入って内側からその様子を見ることができる。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲店の間の土間から居間の土間への境、さらにその奥の囲炉裏の間との間には格子戸がある。よく磨かれて、意匠に富んだものでつい手を触れてみたくなる戸である。
居間への上がり台は百数十年の拭き込みで光沢で光っており格子戸から洩れてくる明かりが写る様子も素晴らしい。
蔀戸は普通、通りなど外に面したところに設置されるものが多く、寝殿造りや神社拝殿などで板の両面に格子が付けられたものがよく見られる。それによって日光や風雨、寒さを防ぐものである。上下に開閉できる戸である。この戸は溝を使ってスライドさせることができるので、半開きもできるし、戸全部を天井に吊り上げて、全開することもできる。現在は障子をはめており、この蔀戸を完全にしたまで下すことはできません。蔀戸を下すような寒いときには障子は外していたのでしょうか。
室内にある蔀戸は県下でもあまり残っていない珍しいものです。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲舞良戸というのは、舞良子(まいらこ)という細い桟(さん)を狭い間隔で横あるいは縦に取り付けた板戸のことです。多く書院造の建具などに用いられる建具です。この木代邸にあるのは、桟が縦に入れてある縦舞良戸で、玄関式台のところに取り付けてある。写真では左右に開かれている。
庭に通じる入口のところにも舞良戸がある。こちらは桟が横に入れられてある横舞良戸である。
通り庭の土間は三和土(たたき)庭となっている。三和土とは、叩き土に石灰と水(にがり)を混ぜ、何回も叩いて仕上げられたものである。叩き土は京町家では京都の深草の深草土、その他の地域では愛知県の三河の三州土、長崎の天川土など花崗岩の風化してできた土を使うそうだが、木代邸などではどこの土であろうか。
この三和土庭についている階段が最初に目に入る。庭の上の部屋は女中部屋だったと思われる。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲中納戸にある階段である。一番しただけが引き出しがついている。上の部分の裏側は、隣の部屋、帳場(居間)の戸棚となっている。帳場で大福帳などの記入をしながら箱階段の戸棚が有効に活用されていたのであろう。
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲奥納戸にある階段で、使わないときは、天井に吊り上げておくことができる。天井裏は戸を閉めてふさぐことができる。その戸には木製の車がついていて、引くとガラガラという音がする。江戸時代の音を今も聞くことができる。
3つの階段はすべて立ち入り禁止としている。
書:観峰。
意味:松の木の緑色が千年の長い歳月を経ても風雪に耐え抜いて、少しもその色を変えない、という意味で、祝語として床の間の掛け軸にもよく使われる禅語です。松竹梅を「歳寒の三友」と称す。禅門においては松を仏とみて、その不断の説法を心で聴けと説く。
書:
中国の宋の時代の真山民という人の五言律詩「興福寺」に
爲厭市喧雜,携詩來此吟。鳥聲山路靜,花影寺門深。
樓閣莊嚴界,池塘清浄心。松風亦好事,送客出前林。
があります。その一部が記されています。
意味:鳥の声が響いた後の山路はいっそう静かである。
この4枚の襖の裏には、仏壇や戸棚や階段を隠す役割を持っています。
書:高宮斐
孫子の言葉である。竹柏は「なぎ」というマキ科の植物のことである。「竹」は節があってきっちりしている。「柏」は四時(春夏秋冬)色を変えぬことから、松とともに、節操の堅いのにたとえられる。竹は柏は私のようになりなさいと教えているという意味。
三国志「出師の表・誡子書」。諸葛孔明の言葉。
「それ君子の行いは静を以って身を修め、倹を以って徳を養う。淡泊にあらざれば以って志明らかならず、寧静にあらざれば以って遠きを致すなし。」優れた人間の行いは穏やかな心で欠点を直し、足りないところを補い、つつましやかな行いで優れた人格を養う。無欲でなければ志はたたず、心穏やかでなければ目標を達成させることはできない。
「人として人たる道さえ守れば天が知る、故に幸福が報いてくる」 人たる道を守れば天は知り福が来る。大岡越前の南町奉行所のお白州正面に掲げてある額にあり、彼の座右の銘か。
遊城南十六首:把酒。
(長安の南でゆっくりしている時の詩、十六首の「酒を片手に」) ざわざわと目立って自己の名声を売って歩く者たちが居る。そんなやつをだれがのんびりした一日をもっているというのか。 わたしはそんなやつとは違ってここに来て誰一人相手もないが、酒を片手に陶淵明の「悠然として南山をみる」と同じに終南山にむかうのだ。 (城南に遊ぶ十六首:酒を把る)
参考:漢詩研究
▲▲▲トップへ戻る▲▲▲平成10年(1998年)4月5日に開館して、以後建物の案内や管理は町つくりの会員(会の発足は平成6年、1994年)が受け持っている。
4月上旬より5月連休終了までは毎日、それ以後は土日、あるいは日曜日だけが、10月末まで開館となる。