この石碑に示されているように、これから皆さんを案内するのは、江戸時代の参勤交代で島根県は出雲國の松江藩松平侯が江戸までの往来にほぼ1年おきに利用した、出雲街道の新庄宿の町並みです。
出雲街道の石碑からこの端まで歩いた地区を「幸せの町」と書いて「幸町」といいます。そして個々にある橋は「御幸せの橋」とかいて「御幸橋」といいます。この川は旭川の支流の御幸橋のそのまた支流の戸島川です。
出雲街道の石碑からこの端まで歩いた地区を「幸せの町」と書いて「幸町」といいます。そして個々にある橋は「御幸せの橋」とかいて「御幸橋」といいます。この川は旭川の支流の新荘川のそのまた支流の戸島川です。
70m上流には浄土宗の念佛寺があります。さらにこの戸島川の上流には四十曲峠があり、その峠を越えると山陰の鳥取県となります。
江戸時代の参勤交代では島根県は松江藩の松平侯などが毎年のように往来されていた出雲街道です。
浄土宗の念佛寺の前には、新庄村教育委員会の説明板があり、それによると
「浄土宗の寺であり、もと真林庵とよんでいた。往古より諸庵などをここに合併して後に念佛寺となったのです。
正徳4年(1714年)の建立棟札があり、大工棟梁は久米南町上籾の人であった。 戸島川に望む境内には大きな地蔵さんがあり、その元からは百日紅の古木が川の上まで伸びている。ピンクの花咲く頃はまた一段と美しい。
寺内には
つゆ踏んでいたことのある野道かな 菊水
などの追善奉納句額があります。」
この出雲街道新庄宿の宿場町跡についての、国や県の指定がここに表示されています。
昭和54年 岡山県指定 郷土記念物「がいせん桜」
平成2年 岡山県指定 岡山景観賞
平成6年 岡山県指定 町並み保存地区(8地区が指定され、県北では勝山、津山城東、美作古町地区と並んで新庄の4地区が指定されています)
同じく平成6年 岡山県指定 新岡山街路樹十景
平成7年 国認定 歴史国道(全国24箇所のうち、中国地方では石見銀山街道の2箇所とともに、岡山県では唯一、出雲街道では新庄村のがいせん桜通りと後鳥羽公園のある村道中山線の一部のみが指定されています。)
平成8年 国認定 日本の音風景百選(中国地方では9地区が指定されており、岡山県では真庭市の諏訪洞・備中川のせせらぎと水車と並んで、新庄宿の小川の2箇所だけが指定されています。)
平成15年 国認定 夢街道ルネッサンス(岡山県で8箇所指定されているうち、出雲街道関係が勝山、津山城東むかし町と並んで新庄宿の3箇所が入っています)
門があるこの石田家は以前、神主が住まわれていましたが、今は 血縁の方も村外で生活されています。敷地内にある鯉池は町つくりの会員などで掃除や餌やりを行っています。
出雲街道 新庄宿の説明板です。
美作国と伯耆の国の国境にある山地の宿場です。出雲街道の中で最も標高の高いところにある宿場でもあります。
説明板を読んでいくと
ここは出雲街道一の難所である四十曲峠をひかえた宿場町でした。江戸初期より家が建ち始め、元禄2年(1689年)には47軒、江戸末期には100軒ばかりの町並みとなり、その頃の宿場は、このようでした。
問屋場(とんやば)として人馬の継立の役割があります。宿場町でもっとも重要なのが人や物を次の宿場まで移送するのに馬や人を準備していたのです。人馬の出入りや賃銭などを記入する帳付や、人馬を割り当てる馬指などの役をしていたのが問屋場なのです。
本陣として大名等の休憩と宿泊の場所。
脇本陣として本陣の予備の役割を持つ。
食事付きの宿屋である旅籠(はたご)は9軒あり、燃料費の木賃のみを支払って自炊する仕組みの安宿である木賃宿を兼ねていた。
諸店舗として食材や日用雑貨を売る菓物荒物商が3軒
製造業として醤油・酒造が1軒、精米や製粉を行っていた水車業が1軒
諸職人として紺屋、表具師、髪結い、木地職、檜皮職、鍛冶職など各1軒
仲間や家族で行う諸稼(もろかせぎ)として、鉄山稼ぎ4軒、馬や牛の売買を行う馬喰2軒、日雇い27軒
農業では専業で47軒、兼業で19軒
以上のような記録があります。
次に、桜と水と鯉の町としての説明をします。
現在の町並みは、日露戦争の戦勝記念に植えた「がいせん桜」並木であり、春は花、夏は青葉に、秋は紅葉、冬は雪の花となります。
両側を流れるきれいな水には、せせらぎの音があり、鯉も泳いでいます。これらと一体になった宿場町の景観は、全国どこにでもは見られないものです。
出雲街道の宿場町として栄えた面影を残す町並みに、1904年(明治37年)~1905年(明治38年)日露戦争の凱旋を記念して桜が植えられ「がいせん桜」として知られます。その桜並木の下には江戸時代に造られた石積みの水路が流れ、生活用水として利用されています。その流れが四季折々に奏でる清涼感のある音はふるさとの調べとなっています。水路わき、家の前にはあちらこちらに鯉池もあります
がいせん桜の家々の前には鯉池が昔からありました。両側の用水路は、日常生活の洗い物、鯉池の鯉にはご飯などの残り物も施され、人々と鯉とが共に過ごしてきた歴史があります。もちろん、この水は火災などのいざのときの備えでもあったでしょう。鯉池に散り落ちた桜の花が浮かぶ様子や落ちた花びららが水路を花筏として流れる様子も趣があります。
この狭い路地を進むと、新荘川にかかる榎橋があり、その先は駐車場、河川公園になっています。この工事より上が上町(かみまち)、この下を本町(ほんまち)といいます。
景観賞の説明板を読むと、以下のようです。
がいせん桜通りの町並みは、旧出雲街道の宿場町の面影をとどめ、脇本陣のほか古い格子のある旧家等が地域の方がの手で大変よく保存されています。
また、岡山県の郷土記念物にも指定されいるがいせん桜は日露戦争の勝利を記念して明治39年(1906年)に植えられたもので、四季折々の変化に富んだ姿を私たちに見せてくれます。
このような歴史的な町並みと美しい町並木、そして両側の清流の水路などが一体となって、この地域の歴史を感じさせるうるおいのある景観をかもしだしています。
このすばらしい景観、そして、これを愛し、守り育てている地域の方々の努力が高く評価され、県内の優れた景観を創出している町並みや建築物などを表彰する岡山県主催の第1回「おかやま景観賞」を平成元年(1989年)度に受賞しました。
寛永12年(1635年)に参勤交代制がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは松江藩松平侯でありました。
元禄2年(1689年)の文書によると、この町並みに御茶屋一軒あり、松平出羽守が通行の折には、毎年昼休みをされたという。
佐藤家が松平指定の「御茶屋」になったのは、寛文6年(1666年)であり、その後の宝暦7年(1757年)に「本陣」役の請負ができた。この頃から松平藩主は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのです。
本陣は
門、書院造り、上段の間があり、世襲で、主人は苗字帯刀が許されていました。
参勤交代のときの連絡と受人については
松江藩から第1回目の先触れが50日以上前にありました。
それに対して本陣から間取り図をつけた請書が返送されます。
さらに
第2回目の先触れが2日ほど前に届けられます。
これを受けて、宿役人が人数割りを示した下宿割を返送します。
当日は本陣は定紋付幕を張り、「出雲少将宿」などという関札を立て、提灯台を設置します。こうして大名が宿泊されることを示していました。
「少将」の位は律令制以後、武士による政治が始まっても、朝廷から官位を受けていたのです。この「少将」というのは「左近衛権少将」(さこのえごんしょうしょう)のことで、 国持大名の一部(黒田、岡山池田、細川など)、親藩、親藩並(鳥取池田など)、連枝(高須、西条など)などに限られていました。松江藩松平家でこの「少将」の官位を受けたのは
初代(1638~1666年) 松平直政(なおまさ)
5代(1705~1731年) 松平宣維(のぶずみ)
6代(1731~1768年) 松平宗衍(むねのぶ)
7代(1768~1806年) 松平治郷(はるさと)不昧公(ふまいこう)
9代(1822~1853年) 松平斉貴(なりたか)
10代(1853~1871年) 松平定安(さだやす)
で10代のうちの5代の大名たちです。
この句碑には
峡の日を
のせて漂ふ
花筏
黛まどか
と刻まれています。
花筏とは、水面に散った桜の花弁が筏の如く固まって流れるさまを言います。
春とはいえ、山間の村の日は短いものです。宿場町を流れる「使い川」に、束の間の日を集めて漂う花筏。清冽な水の流れや美しい桜と共に、新庄村の豊かな山々の景が余さず描かれています。
作者の黛まどかさんは新庄村で第5回日本再発見塾が2009年(平成21年)11月14~15日に開催されたときの師範の一員、また再発見塾呼びかけ人代表として活躍されている俳人です。その縁により平成27年(2015年)4月19日のがいせん桜まつりの日に除幕式が行われました。「桜の俳句」募集がそれに合わせて行われました。さらに8月からは村の文化活動の一つとして俳句教室も再開されるようになりました。
新庄という名前が一緒ということで、阪神タイガースの新庄剛志(しんじょう・つよし)選手を平成10年(1998年)12月13日に新庄村に来ていただいた記念に足形を残したものです。新庄選手は1993年に阪神タイガース歴代最年少での先発4番打者としての出場を記録し、2001年には日本人野手として初めてメジャーリーグへ在籍し、2002年には日本人選手として初めてワールドシリーズへも出場した選手でした。
ここは新庄宿の脇本陣でありました木代邸です。説明を読んでみます。
脇本陣
江戸時代末期の代表的な建物です。式台があり、見越しの格子、親子格子の出格子を取り付け、2階は大壁造りで、1階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りです。
入り口の柱には、馬繋ぎの環があり、トイレには今でも刀掛けが残っています。
問屋場(とんやば、といやば)
宿場町の中心的な機能を持ったところで、そこには、次のような人たちがいたのです。この人達によって、宿駅の人馬の継立(つぎたて)、助郷(すけごう)賦課などの関する事務をとる役所です。
問屋・・・問屋場の長
年寄(としより)・・・問屋の補佐
帳付(ちょうづけ)・・・書紀。毎日の人馬の出入りや賃銭などを記入する。
人足指(にんそくさし)・・・人足の割り当て
馬指(うまさし)・・・馬の割り当て
人馬賃銭
文化2年(1805年)新庄宿ー美甘宿
本馬(ほんま)・・・1匹 143文
軽尻(からじり、からしり)・・・1匹 130文
人足(にんそく)・・・1人 125文
とあります。この「本馬(ほんま)」というのは宿場に置かれ幕府の公用車や諸大名が賃銭で使用できた駄馬(だば、だうまと読み、荷物を運ばせる馬のこと)の一つで、1駄として定められていた積荷量は40貫(約150kg)または36貫(約135kg)でした。人と荷物の両方を載せるときは「乗掛(のりかけ)」といって、このときの荷物は20貫までとされ、
次に「軽尻(からじり、からしり)」は、荷物だけを乗せるときは本馬の半分にあたる20貫まで、人を乗せる場合は手荷物を5貫目(18.8kg)まで乗せることができました。
人足は荷物5貫(約19kg)まで持つ決まりでしたが、実際は10貫(約38kg)くらいまで運んだという例もあるようです。
当時、蕎麦1杯が16文とよく言われますから、新庄から美甘まで本馬を使えば蕎麦9杯分の費用がかかることになります。宿駅の馬は一般旅行者は使えないということもあるようですから、その他に頼めばさらに費用もかさむようです。
※江戸時代の物価を現代の貨幣価値に置き換えてみるとおもしろい【江戸の生活】には物価比較の基準が載せられていたので、参考にさせていただきます。 物価比較の基準
1文=25円
1貫=1000文=25000円
1朱=250文=6250円
1分=4朱=1貫=1000文=25000円
1両=4分=16朱=4貫=4000文=100000円
参照:山城屋善五郎
江戸時代前期頃はこの数字よりも数割物価は安かったようです。
松江藩の参勤交代のときなどに本陣とともに主に利用された施設です。江戸時代後期の建築物が現在まで保存され、平成10年4月5日より一般に公開され始めた。開館は「出雲街道新庄宿町つくりの会」の会員が世話をしており、4月6日前後から5月連休明けまでは毎日、以後11月末まで日曜・祝日に開館している。開館時間は10時~15時。桜の開花時期は時間を拡大しています。
新庄村の指定文化財を示す石柱です。木代邸の前にあります。
江戸時代には街道筋に一里ごとに設置された一里松。当時のものではありませんが、このあたりに一里塚が設置されていました。
平成29年(2017年)日本有数の進学校の東京都の開成高等学校の2年生102名が新庄村を訪れました。修学旅行のコースの中で「小さくても合併せずに自主自立を目指している日本でもっとも美しい村」として来村しました。3分の1の生徒は民泊し村民との体験活動をしました。残りの生徒は中学生とのキャッチコピーを考えるワークショップを行いました。訪問の記念に植樹された桜の木です。
ここに、がいせん桜並木の説明板が置かれています。それによると
明治38年(1905年)12月の村会(村議会)で、日露戦争の戦勝の永き記憶、地方風致を保ち、衛生上も利するとして、桜の植樹が議決されました。
御幸橋より町尻まで、200間(360m)の長さ、3間(5.4m)間隔に、137本の桜が植えられ、がいせん桜とよんで、みんなで守ってきているのです。
がいせん桜並木は、春らんまんと花が咲き、夏の緑に秋の紅葉、冬は雪の花となり、四季折々の風情を変えて、旧出雲街道新庄宿の町並みを、美しく引き立てているのです。
この稲荷小路から上が中町といい、これより下が東町と西町になります。
平成6年(1994年)に岡山県より町並み保存地区の指定を受けました。岡山県では8地区が指定され、県北では新庄村のがいせん桜通りの町並みの他に勝山、津山城東、美作古町地区の4地区が指定されています。この町並みでは冬の積雪や低温にも強いということで石州瓦の茶色の瓦が多く用いられています。
この細い筋を通り抜けると鳥居があり、そこから山道の参道を登っていくと愛宕宮があり、町の火の神として祀られています。
がいせん桜は昭和54年(1979年)岡山県によって郷土記念物の指定を受けています。これは岡山県自然保護条例に基づく郷土記念物としての指定です。
新庄宿のがいせん桜通りの両側を流れる小川は、平成8年(1996年)に国の「日本の音風景百選」の指定を受けました。説明板によると、
出雲街道の宿場町として栄えた面影を残す町並みに、日露戦争の凱旋を記念して桜が植えられ、「がいせん桜」として知られる。その桜並木の下には江戸時代に造られた石積みの水路が流れ、生活用水として利用されている。その流れが四季折々にかなでる清涼感のある音はふるさとの調べとなっている。
平成7年(1995年)に国(建設省)から歴史国道に指定されました。その標柱がここにありますが、出雲街道はこの角より折れ曲がって10mほど進み、そこからまた折れ曲がって下に向かって進むようになります。歴史国道というのは、歴史上重要な幹線道路として利用され、歴史的・文化的な価値を有する道路として国土交通省(建設省)が選定した道路です。中国地方では3箇所が指定されています。その1つが出雲街道新庄宿のこの町中線(がいせん桜通り)と後鳥羽上皇の史跡があり道の両側に杉木立の並ぶ中山線との2箇所です。2つめは、石見銀山街道上下宿と3つめは石見銀山街道の天領石見銀山です。
ここには出雲街道についての説明板があります。それによると、
陰陽を結ぶ道
古代はヤマトとイズモを結ぶ道でした。奈良時代は運脚の道であり、出雲国造(いずもくにもみやつこ)の神賀詞(かむよごと)奏上の道でした。出雲国造(いずもくにもみやつこ)の神賀詞(かむよごと)というのは新任の出雲国造が天皇に対して天皇への忠誠とともに天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられることです。
慶長9年(1604年)には、出雲街道に一里塚がつくられ、慶安元年(1646年)には、播州境の万能乢(まんのたわ、満ノ乢。万能峠まんのうとうげ)まで整備されて、この道を通る人々は増えていったのです。
松江藩主の参勤交代や、公儀諸役人や公家息女の輿入れの道でした。また、東参り(伊勢参宮)や西参り(出雲大社)への旅人も通り、江戸と松江を結ぶ「七里飛脚」の通る回数も多かったのです。
出雲街道二十一次
出雲街道は、姫路より松江まで約220キロ、岡山県内は作東町(現在の美作市)の万能乢より新庄村の四十曲峠までが約90キロです。その間は
播磨(兵庫県)・・・六次
美作(岡山県)・・・八次
伯耆(鳥取県)・・・四次
出雲(島根県)・・・三次
でした。
処刑場の今井河原のすぐそばに『六十六部回國碑』が建てられています。
高さ75㎝のこの廻国碑に刻まれているのは
六十六部日本回国清甚塚
享保十三年申正月念五日
「念五日」ですが、この「念」は「二十」という「廿(ねん)」のことです。
そうなると、この碑が建てられたのは、「享保十三年一月二十五日」(1728年)ということになります。このちょうど一年前に当たる享保12年(1727年)1月25日には、山中一揆により湯本下河原(真庭市、旧湯原町)で8名の人が処刑され、その中に新庄村の忠助という人物もいました。新庄村の4人目の犠牲者ということになります。
新庄村教育委員会の案内板によると、
戦国時代には浦山城主の池田孫三郎が捕らえられて、ここの河原で磔にされたということです。また、享保11年(1726年)には、山中一揆(さんちゅういっき)が、真庭郡北部地域(新庄・美甘・蒜山(川上・八束・中和)・湯原・勝山北部)で起こり、総大将格の徳右衛門もやってきて、集まった2000人の農民に一揆の指揮をしています。やがて一揆は鎮圧され、享保12年正月12日に今井河原では、5人が処刑されているのです。新庄の「久太朗」「与三兵衛」「六八」という人と、美甘村田口の人、2人が斬首刑にされたのです。
この橋の名前は、「宝の田」と書いて「宝田橋」(ほうだばし)といいます。旭町からこの橋を渡って道の駅の脇をまっすぐ山の方に入っていくと宝田という地区に入ります。今は、道の駅から新庄村の町並み、がいせん桜通りへのメインルートとなる、観光客の皆様との架け橋でもあります。欄干にも趣を凝らした作りがされています。
道の駅「がいせんざくら新庄宿」やその駐車場から新庄宿の町並みに向かって歩くと、真っ先にこの方だ橋が迎えてくれます。その袂には国や県から指定された内容の一覧が表示されています。小さい新庄村でありながら、歴史、文化、自然の各方面から指定を受けています。
この宝田橋から上流を見ると、「新庄富士」とも言われる「笠杖山」(かさつえさん)(標高1,063m)がどっしりと構えています。川沿いに沿って、町並みのソメイヨシノのがいせん桜より少し遅れて咲き始める枝垂れ桜や芝桜がその時期には目を楽しませてくれます。
国道沿いに、歴史国道出雲街道新庄宿、町並み保存地区の入り口の案内標柱が建てられています。