アクセスで満年齢と数え年、和暦と西暦

Accessを使用していて、人の年齢を入力するときに、年号(和暦)の表記の人もあれば、西暦で入力されている人もいる。いちいち計算するのも面倒。そして、満年齢とともに数え年も表記しようとして、どうすればよいか。一度に表示させることもできるのだろうが、そこまでの技術もないので、分割することに。

和暦を西暦に変換表示し、満年齢と数え年を表示させる

和暦生年月日の欄は、非連結のテキストボックス「和暦生年月日」を配置する。

表示用西暦年のところにはコントロールソースに

=IIf(IsNull([和暦生年月日]),"",Format([和暦生年月日],"yyyy/m/d"))

と入力する。

「生年月日」の欄は、上で表示された西暦年を入力する。こうすれば西暦で記載されているものは、この欄に直接入力すればよい。

年齢表示ボタンは「更新」ボタンです。更新ボタンを押せば次の数え年と満年齢が表示される。

レコードの更新

数え年の欄のコントロールソースには

=Year(Date())-Year([生年月日])+1

と入力する。

満年齢の欄のコントロールソースには

=IIf(Format(Date(),”mmdd”)<Format([生年月日],”mmdd”),DateDiff(“yyyy”,[生年月日],Date())-1,DateDiff(“yyyy”,[生年月日],Date()))

と入力する。

 

 

 

念佛寺寺報第58号が完成しました。

念佛寺の寺報第58号が完成しました。
今回は昨年、お地蔵様の大事に刻まれている文字を拓本によって明らかにした江戸時代の様子を少し「念佛寺由来5」として掲載しています。

写真も掲載しますが、詳しくはホームページでご覧ください。

jihou58.jpg

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山中一揆講演会と新庄宿、津山瓦版

津山瓦版に「新庄村の脇本陣へ見学に行って来ました。」の記事。山中一揆と新庄宿、六十六部廻国碑、脇本陣木代邸の記事が掲載されました。https://www.e-tsuyama.com/report/2018/12/mt-preview-74fb0f3c4b448242c727316540d40a393d9ac345.html

津山教育事務所主催で美作地区の文化財保護委員さんなど60名ほどが参加される研修会が10月2日に新庄村公民館で開催され、その時の講師を務めさせていただきました。その時、参加されていた津山瓦版の方が、12月23日に記事にしてくださいました。

講演のテーマは「山中一揆」。新庄村と山中一揆との関わりを含めながら約1時間の説明を行い、そのあと、出雲街道新庄宿の案内とともに、六十六部廻国碑の説明をさせていただきました。さらに脇本陣木代邸の説明もさせていただくことができました。

十分な説明にならなかったかもしれませんが、良い経験をさせていただきました。

 

文化財保護研修会で山中一揆について説明

10月2日に行われた津山教育事務所主催の文化財保護委員さんら60名ほどの参加者を前にして、山中一揆について説明をさせていただき、その後、山中一揆で最初の処刑地となった新庄村今井河原と関連すると思われる六十六部廻国碑の案内、さらに江戸時代の松江藩の宿場の脇本陣の説明をさせていただきました。
津山教育事務所のホームページ内にその紹介があったので、その写真とPDFのリンク先を掲載させていただきます。

http://www.pref.okayama.jp/uploaded/attachment/243320.pdf

旧暦-西暦の相互変換の年号でミスのご指摘

旧暦-西暦の相互変換http://www.can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html の年号でミスのご指摘を「ご感想をお寄せください~フォームメール」(http://www.can-chan.com/postmail/postmail.html)を利用していただきました。その内容は

年号、康生、は、康正ではないでしょうか

というご指摘でした。確認したところ確かに間違っており、正しくは「康正」(こうしょう)でした。

早速、上記サイトの年号を訂正し、ご指摘くださった方にもメールで感謝を述べるとともに、この場でも訂正を載せておきます。

この「康正」(こうしょう)という年号は室町時代の1455年~56年となります。

今後とも、本サイトへのご指摘、ご感想をよろしくお願いいたします。

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六十六部日本廻国巡礼納経札ー十和田市

青森県の十和田市で確認できた六十六部日本廻国巡礼納経札を文字に書き起こして、冊子にまとめられたものである。

1400枚あまりの札を文字に起こし、巻末には年代別、国別に膨大な一覧ができている。また、国ごとに何枚の札が所有されているかも表でまとめられている。

驚くことに、ほぞ全国各地、私の住んでいる新庄村に近い「作州勝山」などの巡礼者の札も確認することができた。美作の巡礼者の札は13枚あったとまとめられている。

念佛寺寺報第56号完成

念佛寺の寺報第56号(PDF、762kb)が完成しました。寺報一覧

今回は念佛寺第4世時代に本堂やその他のもろもろの佛具などが揃えられたなどの記事を書いてみました。

オトギリソウの花の名前の由来は、ちょっとびっくりです。

GoogleMap山中一揆史跡地図をスマートフォンでも見やすくする

山中一揆史跡を地図で辿る~GoogleMap(http://www.can-chan.com/sanchuikki/santyuikki-shiseki-gmap.html)だとか浄土宗総本山・本山・特別寺院Googlemap(http://www.can-chan.com/tizu/g-mapjodo-honzan.html)などのGoogleMapを、スマートフォンでも簡単に表示できるように、今までのTableで区切られていた表示を取り払い、パソコンではできるだけ広く、スマートフォンでも画面に応じで見ることができるように、改造してみる。もともとはQPONさんからのスクリプトを利用させていただいていたが、スマートフォンでは画面からはみ出すようになっていたので、思い切って変えてみる。レスポンシブルな表示を目指してみました。

パソコンでは次のような見え方です。

スマートフォンで表示させたときは

スマートフォンの狭い画面で見たときもその画面に応じて表示できる。

ここでは、画像としては同じようなサイズで表示されているが、画面として表示できている部分は、パソコンの画面(上の画像)のうち赤線で囲んだ範囲となります。史跡一覧も地図下のボタンや検索窓もすべてスマートフォンで見えるようになりました。

念佛寺寺報「摂取」第55号の掲載

寺報をホームページにアップせずに3号分もためていた。

今回ホームページの体裁をつついていてやっとその事に気づいた。

今回一気に53号、54号、55号と「念佛寺寺報」の目次ページにリンクを設置しました。

両面印刷の第2号となります

連載記事としている「念佛寺の由来」の第2号となります。今後、どのようにふくらませることができるか、お楽しみにしていただければ幸いです。

旧暦ー西暦の相互変換のページをCSSによるレスポンシブルな新メニュー設置とページレイアウトに

旧暦ー西暦の相互変換のページのサイトメニューの表示をリニューアル。
スマートフォンやタブレットでも見やすくするために、レスポンシブルな表示にしました。
FlexboxというCSSによるページを作成してみました。
それに合わせてメニューもCSSでレシポンシブルなものに変更です。
今までも各ページのメニュー表示をできるだけ設置しようとしてjavascriptを使用して表示もしていましたが、ページによってはそのページ内のjavascriptの関係が影響しあって、メニューが動かなかったり、ページ内の計算や表示等ができなかったりして、メニューが設置できなくてトップページへの案内アイコンだけで断念してきた経緯があります。

今回は次のような体裁となりました。
[/caption]

レシポンシブルなメニューとページ体裁

スマートフォンやタブレットでは
スマートフォンやタブレットでのメニュー表示

今回変更作業をやっていて、メニューをすべてのページに長々と書くわけにいかないので、jsファイルにして表示しようとしても表示できず、ネットで調べていたら、コメントアウトの/* */ に全角の文字直後にあるとエラーとなるということを初めて知った。これを訂正したら、jsファイルでのメニュー表示もできるようになった。
ただ、Google検索の窓を設置したら、現在日時を取得して「西暦から旧暦へ変換」と箇所が動かないので、検索はリンクで表示することにした。

新庄村の出雲街道新庄宿の脇本陣、今日の入館者数は村内人口より多かった!

今日は脇本陣木代邸の案内当番を一人で行いました。本日の入館者をカウントしていくと1005人!
新庄村の人口を上回る数字です。
島根県の松江藩の松平家が江戸への参勤交代で2日目の宿になった本陣の向かいにある脇本陣です。公開されているのはこの脇本陣だけです。今年度から施設内に出雲街道にゆかりのある品を展示した「史紀庵」もオープンし、開放中はいずれも無料でご覧いただけます。
多くの方に喜んでいただけました。
岡山市、倉敷市、福山市、鳥取市など、お声をかけさせていただいた方の多くは遠方から初めて来村されたそうです。
もちろん、毎年来ていますよ、という方も。
桜がすごいとは聞いていたが、まさかこの町並みの中の桜とは驚いた。堤防沿いの桜だろうくらいに思っていたので、本当に素晴らしい。
また、通りはよく歩いているけど、脇本陣の木代邸に入ったのは初めてで、よくこれほど江戸時代のものが脇本陣が残され公開されていてすごい。
などなど、嬉しい感想をお聞きすることもでき、当番を務めていて幸せをいただきました。
また家族を連れて来たいとという声に、また元気に一日を終えることができました。

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旧暦-西暦の変換で2つの旧暦間の日数を計算できるようにした

江戸時代の旧暦を西暦に変換し、2つの旧暦の間の日数を計算する。エクセルでの日付計算は1900年以降しかできず、WEB内で計算できるようにやっとできた。旧暦-西暦の相互変換http://www.can-chan.com/koyomi/qreki-seireki.html)のページがそれです。下の画像はその一部です。

旧暦を現在の西暦(グレゴリオ暦)に変換するときに、「修正ユリウス日」を利用する。

旧暦を西暦に変換

旧暦を西暦に変換

2つの期間を計算しようと思った理由は、江戸時代の参勤交代でかかった日数とか、藩や江戸での滞在日数を調べてみたかったからだ。近いうちに出雲街道を通行して新庄宿に泊まることの多かった松江藩の参勤交代の様子をまとめてみたいと思っている。

脇本陣木代邸の案内~パソコン使用20周年記念

パソコンを購入してから今日で20周年となる。それまでのワープロだけの生活からずいぶん状況は変わったように思う。当時のパソコン(ウィンドウズ95)、NECのキャンビーというようなパソコンだった。購入に当たって「社会科の授業で必要な情報をインターネットで検索できるから」という理由づけをし、当時手取り給料の2カ月分は十分にかかったように思う。パソコンの容量は今のスマートフォンよりも少なく、遅い。インターネットといっても接続までの時間が電話回線で、ピーピーと音のなる時間が長く、表示も遅く、調べることのできる情報も少なかった。使用しながらネットの情報も誰かがアップしないと探せないということに気づき始め、自分が困るように他の人も同じように思っていることだろうと、ホームページ作りにも力が入っていった。
20周年記念などとタイトルに書いたが、それほどの意味はなく、ホームページのサイトページ数は400を超えている。
新庄についても写真などはよく載せてきたが、新庄村についてということではほとんどページもなかった。
今年、新庄宿町つくりの会の活動として、木代邸の受け付け案内を数回させてもらう機会を得た。ただ木代邸そのものについての知識も大してなかったので、会の資料や新庄村史、インターネットなどを通じて木代邸について写真とともにページとしてまとめることを思いついた。

「脇本陣木代邸」は
http://www.can-chan.com/shinjo/kishirotei.html

上の写真のようなページです。

がいせん桜が見ごろを迎えると、この木代邸への入場者(無料です)も1日に2000名~3000名にも上る。がいせん桜は見たけど脇本陣の木代邸には入り損ねたという人のためにも、このページが少しでもお役に立てたら幸せなことです。

全国で現存する脇本陣はわずか6か所だということです。そのうちの一つなのです。多くの方が訪れることをお待ちしております。

山中一揆史跡を電子国土地図で表示

山中一揆に関係した地図を今までも、GoogleMapやBingMapや地形図などで表示してきました。かつて国土地理院の地形図を利用して作成していたページが、地理院のシステム変更により表示できなくなっていたので、新たに作成したのが次のようなページです。

山中一揆関係地図~電子国土地図

です。

今までの地形図は25000分の1の地形図でしたが、ここでは拡大縮小も可能です。国土地理院に使用申請中。

江戸時代の百姓一揆の推移

一口に百姓一揆といっても、その形態はさまざま。

真庭で起きた山中一揆はその中でも「蜂起」と呼ばれる形態です。

緩やかなところから揚げると、愁訴、逃散、越訴、不穏、打ちこわし、強訴、蜂起となります。

山中一揆やこの形態については
http://www.can-chan.com/santyuu-ikki.html
「山中一揆」のページをご覧ください。

横山十四男著『百姓一揆と義民伝承』の中に40~50年間の区切りにこれらをまとめた表があり、それをグラフ化してみたのが下の図です。

山中一揆は、享保・宝暦の50年間に起きた11件の蜂起の中の1つということが分かります。

また8代将軍徳川吉宗の享保年間の時期から急激に一揆が増大し打ちこわしや強訴や蜂起など力強い農民の孝道が感じられるようになります。

江戸時代の一揆の件数

江戸時代の大庄屋と触。異動する大庄屋

元禄11年(1698)の真庭郡の大庄屋と触

江戸時代の大庄屋制度も、いつの時代にもあったわけでなく、天領になれば廃止され、藩になると大庄屋制度になり、さらに大庄屋が変わることもある。そんなことが分かった。   

  • ◆真島郡の南部はこの時、天領になっていたため大庄屋は置かれていなかった。
  •  
  •  
  • 新庄村に限ってみると、大庄屋が時代によってコロコロと変わっている。

    新庄村の大庄屋の変遷

    • 寛永2年(1625)森家が美作全体に51人の大庄屋を置いて民政諸般の事務にあたらせた。
    • 寛永11年8月(1634)真島郡高田村の田中氏に属す(高田触)
    • 寛文元年10月(1661)高田村兼田市郎左衛門に属す。(金田?)
    • 延宝元年(1673)高田村田中九郎左衛門に属す
    • 元禄2(1689)高田村九郎左衛門(内田宮司文書)
    • 元禄3(1690)高田村田中徳左衛門
    • 宝永3年5月(1706)小童谷村の宍戸喜右衛門と触が高田触から小童谷(ひじや)触と改められた。
    • 元禄10年(1697)森家は国除となり、10月11日、美作(作州)は全く幕府の領する所となり大庄屋制は廃止された。この廃止時に新庄村の大庄屋は小童谷村宍戸氏。
    • 元禄11年正月14日(1698年2月24日)松平長矩が美作の内10万石を領すると新庄村はその領地となり、再び大庄屋制度によって三家村の進氏に帰属する。この進氏は赤松氏の子孫で真島郡第一の旧家と称される。小童谷村の宍戸氏は松平氏入封するも起用されず廃されたまま三家触に属した。
    • 元禄12年3月(1699)小童谷触取立てとなり、宍戸氏は再び大庄屋に就任し、新庄村は再び小童谷村宍戸氏に属す。
    • 享保3年8月(1718)の記録は大庄屋宍戸喜右衛門となっている。
    • 享保10年から11年(1725~26)の山中一揆のあったころは三家村進五左衛門になっている。
    • 享保12年(1727)真島郡は天領となり大庄屋は廃止された。その後、天領約50年間、明和元年(1764)勝山に三浦氏が入封したが大庄屋制は行われなかった。

      以上、『新庄村史 前編』P87参照

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