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山中一揆〜新庄・今井河原



享保11年(1726)に始まった山中一揆で最初に処刑が行われたのがこの新庄村の今井河原。時、享保12年正月12日。新庄村の久太郎、与三兵衛 、六八の3名と田口村(現・美甘村)の三郎右衛門と長右衛門の計五名が処刑されました。

今井河原のすぐそばに『六十六部回國碑』が建てられている。新庄村教育委員会発行の『新庄村の石造文化財』(第1集)によると、「回国塔は、大乗妙典と呼ばれる法華経を納める目的で、全国六十六か所の霊場を廻ったことを銘文にして建てた塔である。」「六部 六十六部を略して六部という。経典を納めて全国を巡礼した行脚僧のことで、廻国行者ともいっていた。これはわが国独特のもので、鎌倉時代末期ごろからだといわれている。江戸時代は特に流行し、僧ばかりではなく、俗人もいくようになったのである。男も女もおり、ネズミ木綿の着物に、手甲、脚絆などをつけ、背には厨子を負い、鉦や鈴を鳴らして巡礼したという。廻国行者に宿を貸すことも、功徳だと思われていたので、廻国するには都合がよかったのである。」と記述されている。

高さ75pのこの廻国碑に刻まれているのは

六十六部日本回国清甚塚
享保十三年申正月念五日

この中で「清」とここに書きましたがはっきり読み取れません。似ている字として私が書いたものです。前述の冊子には?として伏せ字にしてあります。次に「念五日」ですが、この「念」は「二十」という「廿(ねん)」だということが、漢和辞典で理解できました。

そうなると、この碑が建てられたのは、「享保十三年一月二十五日」ということになります。山中一揆とかかわるのかどうかは、今の私にはわからないけれども、このちょうど一年前に当たる享保12年1月25日には、湯原町の湯本下河原で8名のものが処刑され、その中に新庄村の忠助という人物もいます。新庄村からすれば4人目の犠牲者ということになります。山中一揆

山中一揆も終わり、ちょうど一周忌に当たるということでこのような廻国碑などを建てようということになったような気がしてなりません。当時は一揆で処刑された人の霊を祭るためにおいそれとお墓なども建てれなかったようです。そうなると、t当時流行していた「六十六部廻国碑」ということにして建てれば行脚僧にも供養になるし、山中一揆で村のために大きな働きをしたこの4名の者の霊を祭ることにもなるし、ということで建てたのではないでしょうか?その場所もちょうど今井河原がすぐ目と鼻の先にある場所。