江戸時代の享保11年から12年にかけて起こった山中一揆は処刑されたものが全国でも類を見ないほどの51名にものぼりました。その最初の処刑地になったのが新庄村の今井河原です。この一周忌に当たる翌年の享保13年に建てられた六十六部日本廻国碑とその近くの廻国碑についてまとめてみました。新庄村の廻国碑やその他の山中一揆関係史跡の位置については
山中一揆で五十一名もの百姓たちが処刑されて一周忌に当たる享保十三年に建てられている「六十六部日本廻国碑」です。この石造物には新庄村教育委員会の「六十六部廻国碑」と記された表示木が建てられています。
享保十三年
六十六部日本回國清甚塔
申正月念五日
「新庄村の石造物」の冊子によると「清」の文字を「□」で示しているが、「清」という文字に読める。享保十三年は山中一揆で今井河原から始まった処刑から一周忌、「正月念五日」の「念」は「廿=ねん=二十」ということで「二十五日」であり、湯本下河原で処刑された八名、うち一名は新庄村の人で村内計四人目となる犠牲者からちょうど一周忌に当たる。
この廻国碑について特に「六十六部廻国碑」標柱は建てられていない。
安永五丙申十一月吉日
○奉納大乘妙典日本回國六十六部塔
俗名 善右衛門
安永五年は丙申(ひのえさる)の年で1776年。山中一揆今井河原処刑の享保十二(1727)年二月から五十回忌に当たる。この碑には供養者の名前が刻まれている。俗名は「新庄村の文化財」の冊子には記載されていない。
この廻国碑について特に「六十六部廻国碑」標柱は建てられていない。