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山中一揆〜津山市院庄「首無し地蔵」



享保11年(1726)に始まった山中一揆で最終の処刑地となったところに、五体の首なし地蔵がある。

説明書きには、
津山城 松平2代目 城主松平浅五郎(幼少6歳)時代のこと
享保11年3月(253年前)山中一揆の首謀者として御殿河原(嵯峨井堤下)に於いて斬殺された五名の者の地蔵様で新田村(現津山市新田)の村人達が哀れんで建立したものである。

巨魁の徳右衛、弥次郎
富東谷村の與七郎
東茅部村の七左衛門
土居村の忠左衛門
東茅部村の喜平治

昭和54年1月  津山市二福 畑 輝忠記

とある。

処刑されたのは享保12年3月12日。院庄滑川刑場と「山中一揆」冊子には出ている。そして山中一揆を見ていただければその処刑の詳細は記述しているが、打ち首は東茅部村(現・川上村)の七左衛門と土居村(現・湯原町)の忠左衛門。獄門は富東谷村(現・富村)の與七郎と東茅部村(川上村)の七左衛門。磔は見尾村(現・勝山町)の弥次郎と牧村(現・湯原町)の徳右衛門。以上6名である。したがってこの説明板にかかれている5名と言うのは、書き間違いをされたと思われます。