このバナーをクリックするとホームページに戻ります

山中一揆フィールドワーク(写真スライドショー)




1726年(享保11年)の暮れから翌年にかけて、津山松平藩領で起こった百姓一揆=山中一揆が起こされた。一揆の主勢力が、現在の真庭郡内の旭川上流地域を山中地方と呼んでいたのでこの名がついた。この一揆の指導者は牧の徳右衛門、見尾の弥次郎、さらには大森の七左衛門など。苛酷な藩政に抵抗して生活を守るために立ち上がった青壮年者の中で、処刑された犠牲者51名という、日本の江戸時代の一揆の犠牲者の数では例を見ないほどである。1年に1件おきるかどうかの蜂起の形態である山中一揆。地元の人々の間では義民祭りなどとして今でもその徳を讃えている。

スライドショー掲載写真の一覧


湯原町禾津の柿の木坂,このなだらかな坂を「柿の木坂」と言う。山中一揆の統領であった牧の徳右衛門が捕らえられた地でもある。

山中一揆義民之碑,その地に「山中一揆 義民之碑」が建てられた。この碑の題字は建立された当時、岡山県知事であった長野士郎氏によるものである。

山中一揆犠牲者慰霊碑,一揆で処刑された51名もの名前が刻まれている。

徳右衛門の墓,義民の丘から100mほど下手にの国道縁に徳右衛門の石碑がある。

今井河原(新庄村),山中一揆で最初に処刑者が出た場所。田口村(現美甘村)2人、新庄村3人の計5人が処刑された。

見尾の弥次郎と忠犬塚,勝山町見尾にはもう一人の統領である弥次郎の石碑が建っている。

弥次郎生家付近から見た弥次郎嶽。,忠犬の後を追った役人に発見され弥次郎は捕らえられる。

蒜山(川上村西茅部田部),山中一揆の首謀者として20人もの犠牲者のお墓が立ち並ぶ。

蒜山(川上村西茅部田部),霊を慰めるために彫られた石仏。この数に北部の人の熱い思いが感じられる。

大森義民父子の祠,奥山中の指導的立場だった親子の祠

社田義民の墓,説明板横の自然石が義民の墓である。

笠木義民の墓,戒名に「刃」の字が読み取れる。一揆で処刑されたことがしのばれる。

清水寺の供養塔,土居中河原で処刑された25名の菩提を弔う石碑

大林寺の妙典塚,一揆から100年ほど後に建立。刻まれた犠牲者の名前は50名といわれ1名足らない。