本日は皆様、ご苦労様です。
満中陰忌ということで法要を勤めさせていただきました。本堂の法要の最後にあたり少しだけお話をさせていただきたいと思います。
一蓮托生という言葉がございます。今は、どちらかというと悪い意味で、「悪いことをするのも一蓮托生」などと使われることもあります。行動や運命を共にするという意味で使われることが多いですね。この一蓮托生というのは、「いち」は数字の「一」、「れん」は「はす、蓮」です。「たく」は「たくするの托」「茶托の托」「まかせる、のせる」です。「しょう」は「うまれるの生」です。つまり「一つの蓮の葉の上に生まれる」という意味です。蓮の花は、梨瀬の金盛先生のお宅の上にたくさん咲いております。昼ごろになるとほとんど花はしぼんでおりますが、朝方は大変きれいに一面咲いております。
満中陰を迎えられ、無事、極楽浄土の世界にお生まれになった○○さんも、先に極楽浄土に往生されている方々と同じ蓮の葉の上で一緒になるということです。七日、七日で裁判を受けられ、五七日の三十五日にはあの有名な閻魔大王に裁かれるということになります。「生前のことについて嘘をつくと舌を抜かれる」というものです。本日、本堂でお唱えしたお経は「阿弥陀経」の後半部分です。この後お宅のほうで皆さんと一緒に唱えていただくお経はこの前半部分ですから、順番が逆になってしまうということにもなります。そこはお許しいただきたいと思います。この中で、東西南北上下の六方の諸仏たちが、阿弥陀さんのおっしゃることは間違いないんだと、三千世界を覆いつくすような大きな舌を出して、「私は嘘をついていません。」と証明されているのです。
私など小さい子どものときは、友達などと喧嘩してよくお互い「ウソをつくとエンマさんに舌を抜かれるぞ」などと言い合いをしてたものです。インドでは舌を出すということはウソをついていないことを証明する身振りなのです。舌を出すということで、世界のある地域では仲間になろうということになったり、また逆に「攻撃するぞ」という合図になったりすることもあります。日本で「こっちにおいで」と手招きをするとその同じ合図はアメリカでは「あっちに行け」という合図になってまったく逆のことにもなります。世界は広いものです。
それではどうすれば極楽浄土に往生できるかということですが、寺報の第20号で「福徳因縁 得生彼国(ふくとくいんねん とくしょうひこく)」(阿弥陀経)という言葉を載せております。これは少ないよい行為、少善根では往生できない。往生するためには南無阿弥陀仏の念仏を称えるという善根によってかなうものなのだ、ということです。ですから塔婆にも、私は梵字(ぼんじ)を書かずに「南無阿弥陀仏」で始まる形式をとっております。他の宗派や浄土宗の他の住職でも梵字をお書きになる方は多いのですが、私自身が梵字をほとんど知らないボンジん(凡人)ですから、また皆さんにも理解できるもののほうがよいと思って漢字で、南無阿弥陀仏、お経の言葉、戒名などを書いております。
あれこれ申しましたが、わたしたちもまたいつのときにか、この世を去り極楽浄土に向かうときがございます。それに備えて、これからもどうぞ「南無阿弥陀仏」の念仏の声を絶やさぬようにお願いしたいと思います。
それでは最後に皆さんとともにもう十回の念仏を称えて終わりにしたいと思います。どうぞ合掌なさってください。「同称十念」。