念佛寺施餓鬼会に皆さんようこそお参りくださいました。毎日本当に暑い日が続いています。

法然上人は幼名を勢至丸と呼ばれていました。9歳の時、平安時代で地方役人の押領使を勤めていた父親・漆間時国(うるま・ときくに)が、京都から派遣されていた明石定明(あかし・さだあきら)の夜襲を受けました。寿命わずかと感じた時国は勢至丸に「仇討ちなど考えずに仏の道を歩んでくれ」と遺言しました。現在でもイスラム諸国などではイスラム教指導者の間で「目には目を」の紛争が続いているというのは残念としか言いようがありません。

母親の弟・観覚(かんがく)が住職となっている那岐山の菩提寺に預けられた勢至丸は13歳まで修行や勉学に励みました。観覚は比叡山で学ばせようと考えました。比叡山西塔へ旅立った勢至丸に持たせた手紙には「大聖(だいしょう)文殊像(もんじゅぞう)一体を進上致します」とだけ書かれていました。受け取った持法房源光(じほうぼうげんこう)が、その意味を察し、入門を許可したのです。2年後の勢至丸15歳のとき東塔の碩学(せきがく)皇円(こうえん)の元で僧侶となり、正式に僧侶として「法然房(ほうねんぼう)源空(げんくう)」という僧名を名乗るようになります。ここで25年間、学び続けました。

その中で法然は「無量寿経」に説く念仏の教えを苦悩する人間模様を例に具体的に解き明かす「観無量寿経」に注目します。中国の善導大師がその注釈書として「観無量寿経疏」を表していたのです。「無差別平等の立場から貴賤老若男女の別なく、阿弥陀仏の名号を唱えれば、阿弥陀仏は救ってくれる」と説いていたのです。  

このころは保元の乱(1156年)や平治の乱(1159年)などもおこり、人々が不安な生活をしている世の中に、法然は念仏の教えを広めたいと考えるようになるのです。その決心のきっかけが、夢の中に善導大師が現れ、念仏の教えを広めるように励まされたのです。

こうして法然は30年学び続けた比叡山を下り、承安5年(1175年)3月、43歳の年、「一心に専ら弥陀の名号」を称えれば何人も必ず極楽浄土に往生することができ、これが万人救済の道であるとの結論に達し、浄土宗をお開きになったのです。

「観経疏」には  一心専念弥陀名号(いっしんせんねんみだみょうごう)
 行住坐臥不問時節久近(ぎょうじゅうざが ふもんじせつくごん)
     念念不捨者(ねんねんふしゃしゃ)
    是名正定之業(ぜみょうしょうじょうしごう)
     順彼仏願故(じゅんぴぶつがんこ)
 (一心に専ら阿弥陀さまのお名前を称え、行住坐臥いつでもどこでも時節の長い短いを問わず、ひとときもやめてしまわないのを最も正しく間違いのない往生の業というのです。なんとなればそれは阿弥陀さまの衆生を救おうというご本願にかなっているからです。)

1186(文治2)年、大原談義。比叡山麓の大原で天台僧顕真らと行った問答。顕真は生死から離れる方法を問いかけ、法然は願力による凡夫往生を提示した。法門比べでは互角であったが機根比べでは勝利したという。「聖道門の法門は深しといえども、今の機には叶わず、浄土門は浅きに似るとも、今の根、叶いやすし」と。これにより当時の仏教界において基盤を固めた画期的な事件でもあったのです。

1200(正治2)年、鎌倉幕府は法然上人(68歳)の専修念仏を禁止する
1204(元久元)年10月、延暦寺衆徒が天台座主に法然の専修念仏停止を訴える
これに対して、
1204(元久元)年11月7日、法然は「真言や天台など諸宗派の教えを非難したりしない」などの※「七箇条制誡」(「七箇条起請文」)を作り、門弟を戒め、法然をはじめ門弟190余名が署名して、天台座主に送られた。
1205(元久2)年、興福寺衆徒が9箇条を挙げ院に法然(73歳)の念仏禁止を訴える(興福寺奏状)
1207年、法然は土佐配流を命じられるも、讃岐にいるうちに、勅免される。 1211(建暦元)年、法然は勅免により入洛を許される。
1212(建暦2)年1月23日、法然は重体に陥りながらも弟子の求めに応じて「一枚起請文」を書く。
1212(建暦2)年1月25日,法然80歳で入滅。

本日、皆さん方と読上げたものが、法然上人がなくなる前に書き上げた、遺言書ともいう一枚起請文でした。

今年、浄土宗開宗850年にあたり、この門についてのお話をさせていただきました。

ご先祖様たちは、いち早く、極楽浄土の平等で平安なる世界で、お過ごしになっている様子を思い浮かべながら、最後に皆様とともに十念を称えて法話を終わりたいと思います。

如来大慈悲哀愍護念、同称十念。(約10分)

************************* ※「七箇条制誡」(「七箇条起請文」)
第一条には「未だ一句の文をも窺(うかが)わずして真言・止観を破し奉り、余の仏・菩薩を謗ずることを停止(ちょうじ)すべき事」、
第二条には「無智の身をもって有智の人に対し、別行の輩に遇いて好みて諍論(じょうろん)を致すを停止すべき事」、
第三条には「別解(べつげ)別行の人に対し愚痴偏執の心をもってまさに本業を棄置すべしと称し、強(あなが)ちにこれを嫌嗤(きらいわら)うことを停止すべき事」、
第四条には「念仏門においては戒行なしと号し、専ら婬酒食肉を勧め、適(たまた)ま律を守る者をば雑行人と名づけ、弥陀の本願を憑(たの)む者は造悪を恐るる勿れと説くを停止すべき事」、
第五条には「未だ是非を弁ぜざる痴人聖教を離れ師説にそむきて恣ほしいままに私義を述べ、妄(みだ)りに諍論を企て智者に咲(わら)われ愚人を迷乱するを停止すべき事」、
第六条には「痴鈍の身をもって殊に唱導を好み、正法を知らず種々の邪法を説きて無智の道俗を教化するを停止すべき事」、
第七条には「自ら仏教に非ざる邪法を説きて正法となし、偽りて師範の説なりと号するを停止すべき事」