聞法得益 如来大慈悲 哀愍護念 同唱十念

法然上人御法語第27章にいわく。「衆生,仏を禮すれば,佛これを見たまふ。衆生,佛を唱ふれば,佛,これを聞き給ふ。衆生,佛を念ずれば,佛も衆生を念じ給ふ。かるがゆえに,阿弥陀仏の三業と行者の三業と,かれこれ,ひとつになりて,佛も衆生も,親子の如くなるゆえに,親縁と名づくと候ひぬれば,御手に,ずず(数珠)を,持たせ給いて候はば,佛これを御覧候ふべし。御心に念佛申すぞかしと,思しめし候はば,佛も行者を,念じ給ふべし。」

南無阿弥陀佛。南無阿弥陀佛。小僧都養成講座にお集まりの皆さん,こんにちは。皆さんの講座もあと1週間を残すのみになりました。もう一息ですので気を緩めずにがんばっていただきたいと思います。

さて先ほどの法然上人のお言葉は,阿弥陀佛を信じ「南無阿弥陀佛」と念仏すれば,阿弥陀佛は,必ずその念仏を唱えている人のことをご覧になっていて,救ってくださる。それはあたかも親子のように,身も心も一つになっているような親しい関係であります。だから「お助けください」と念仏すれば,その声を聞いて救ってくださるということを説かれているのであります。「呼べば答える」といえば非常に親しい間柄を指す言葉です。今流に言えば,「ツーカー」の間柄とでも言いましょうか。阿弥陀佛と私たちとはそういう関係なのでございます。

私は最近,野鳥に興味を持つようになりました。家にいる時,外へ出たとき,耳に聴こえてくる小鳥たちのさえずりや姿に関心を持ち出したのであります。興味を持ち出してまだ4ヶ月ほどなのでなかなか鳥の名前も覚えれませんが,多くの鳥はとてもきれいな声で鳴いています。この知恩院勢至堂の周りでもきれいな声でさえずっている鳥がいます。私たちの周りには,どこにでもいるのですから,皆さんも一度耳を澄ませて聴いてみてください。

私は岡山県の県北の中国山地の真っ只中で生まれ育ちましたから,小さいことから小鳥の声は耳に入っていたはずです。しかし,今ほど小鳥を意識したことはありませんでした。意識して聴くといろんな鳴き声が耳に入ってきます。その声を人はいろいろに聞き取っているようです。コジュケイという鳥は「チョットコイ,チョットコイ」と鳴き,ツバメは「土喰って,虫喰って,渋〜い。」と鳴いています。そのほか鳴き声で面白いのは,「長兵衛,忠兵衛,長忠兵衛」と人の名を呼んでいるようなものや,「焼酎一杯ぐい〜。」と酒好きの人が聞いたようなものまであります。朝4時ごろになると一斉に鳥たちが鳴き始めるということも知りました。中には,「ギャ〜ギャ〜」とうるさいのもおります。声だけでなく,姿,色,飛び方もさまざまであります。きれいなものもいればそうでないのもいます。気持ちよさそうに飛ぶものもいれば,バタバタとあえぎながら飛んでいるものもいます。

どうしてあんな姿なんだろう。どうしてあんなきれいな声が出るのだろう。そんなことを思っていると不思議でもあるし,もっともっと鳥のことについて知りたいものだと思います。興味はいよいよ増していくばかりの今日この頃であります。

鳥の話が少し長くなったかもしれませんが,阿弥陀佛と私たちとが親しい関係にあることと,野鳥と私たちとの関係と同じようなところがあるのではないでしょうか。野鳥が身の周りでいくらさえずっていても,私たちが,それを本当に聴こうと思わなければ,たとえ耳に入っても意識されずに放っておかれるわけです。しかし野鳥たちは鳴きながら木の上から私たちを見ています。私たちは見られながら見られているとも意識せずに,あるいは意識する心のゆとりも持てないまま過ごしてしまいます。「人間って愚かな生き物だな」と思いながら見ているかもしれませんね。「親しい」という字は「木の上に立って見る」と書きます。木の上から見ればよく見えますね。でも私たちが野鳥を意識しない限り,そんなことを考えませんね。

阿弥陀佛も同じであります。私たちが阿弥陀佛のことを心に思い,「南無阿弥陀佛」と申していくことによって,阿弥陀佛のことが見えてまいるのであります。見えるといっても野鳥のように簡単にはいかないでしょう。それは,森の中にいる野鳥のように姿はなかなか見えてはまいりません。野鳥のことをよく知っている人はさえずりだけで鳥の名もわかるしどんなところにいそうかも知っています。しかし,野鳥に興味を持って数ヶ月しかたっていない者が,なかなか野鳥を探し当てれないのによく似ています。しかし,そういう姿を野鳥は木の上から見ているのであります。阿弥陀佛も「南無阿弥陀佛」と唱えている私たちの姿を,きっと見ていてくださるのであります。

野鳥のことを思い耳を済ませていると,他の雑音は耳に入らなくなり,心も落ち着き澄んで清らかに洗われるような思いがします。阿弥陀佛のことを真剣に思い,念仏を唱えるときも心が落ち着いてまいります。これも阿弥陀佛の大慈悲のおかげだと思います。親のように親しい関係のある阿弥陀佛でありますが,私たちが阿弥陀佛を思い,念仏を申さない限り,阿弥陀佛の慈悲を受けることもできないのであります。それは野鳥たちがいくらさえずっていても私たちが聴こうとしなければ鳥の存在さえ気がつかずにいることに似ています。阿弥陀佛は,いたらぬ私たちを救って下さるために,私たちみんなの上に光明の手を差し伸べて下さっているのです。阿弥陀佛はいつも私たちをご覧になっていて念仏を唱える者を救ってくださると信じ,その手におすがりできるように,これから皆さんとともに「南無阿弥陀佛」の念仏を申していきたいと思います。

最後に皆さんと共に十遍の念仏を唱えてお別れをしたいと思います。

自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報佛恩 同唱十念。