「暑さ寒さも彼岸まで」という昔からの言葉がございます。「えっ?和尚さん毎年お彼岸はこの言葉で始まっているって?」そうですね。毎年2回は使っていますね。お彼岸はこの言葉がよく似合います。ところが今年はいつまでも寒いですね。つい2、3日前にも雪が降って白くしましたね。お寺の裏の墓地にはまだ雪が残っています。

お彼岸、春分の日といえば、「西」という方角がすぐ出てまいります。ですから本日は「西へ行く」ということで、お話をさせていただきたいと思います。

最初に、ちょっと怖いお話から。怖いといってもお化けや幽霊が出てくるお話ではありません。現実の話です。昨日の20日、日本時間の午後12時半ごろ、アメリカ合衆国のブッシュ大統領は西アジアのイラクに爆撃を開始いたしました。イラクのフセイン大統領が言うことを聞かず、大量破壊兵器をいつまでも持っているとか、他国に亡命しなさいといってもフセインさんが亡命しないから、などということが理由となっているようであります。どうも私には難しい話はよくわかりませんが、ミサイルなどの武器で攻撃をお互いがすると大変な被害が予想されます。「平和」を求めて「戦争」というのはいけないですね。力と力のぶつかり合いは、その後の「報復」がいつまでも続きます。ニワトリと卵とどっちが先かということにもなってまいります。

日本もイギリスと同様にアメリカを支援することを小泉純一郎首相は表明されたそうです。日本も西へ西へと向かっていくようです。日本は原子爆弾という大量破壊兵器で数十万人もの犠牲をアメリカによって受けた国でもあります。そのような経験をしてきた国として、もっと違った行動を選択すべきではなかったのかと思います。

浄土宗をお開きになられた法然上人,幼名を勢至丸と言っていたのですが、その9歳のとき、押領使という役人であった父親・漆間うるま時国ときくには豪族に襲われて非業の死を遂げます。いまわの際、父は敵討ちを考える家族のものたちに「仇を打てば、その家族がまた仇をとるであろう。そのようなことはしてはならぬ。」といったそうです。その言葉により、お寺に預けられ、浄土宗を開かれるまでになられたのであります。

今までの話は、自分以外の他の力によって命を奪われるケースでした。少し話を変えてみたいと思います。

「西へ行く。」この言葉の漢字だけを拾い出しますと、「西」「行」つまり、「西行さいぎょう」となります。話の転換がちょっと強引でしょうか。西行について話をさせていただきます。私自身ほとんど西行について知らなかったのですが、先月2月15日に家で飼っていた猫が喧嘩が原因でか死んでしまいました。猫とはいえ家族みんなつらかったわけであります。「何でそんなに喧嘩をしたんだ?」と引っかいても噛み付いてもこない猫のモモに向かって言ったものです。その2月の15日という日はお釈迦様がなくなられた日でもありました。また、娘が西行のことを教えてくれたのです。

願わくは 花の下にて 春死なむ

そのきさらぎの 望月もちづきのころ

西行は北面の武士でしたが、23歳のとき妻子を捨て出家いたしました。「生得の歌人」といわれた西行の歌は、「山家集さんかしゅう」という歌集にまとめられています。また鎌倉時代初期に後鳥羽上皇の命を受けてまとめられた「新古今和歌集」の中では西行の歌が最も多く選ばれています。花の咲き誇る春、如月きさらぎ(2月)の望月つまり満月のころに死にたいと考えていたようであります。そして建久けんきゅう1年2月16日に73歳で亡くなられました。

2003年3月18日の月。旧暦の如月の望月。

まさに如月の望月のころということになるそうです。西行自らが望んだとおりの時期に命を終えることができたということでしょうか。これほど幸せなことはないと思います。西行がこの如月の望月のころに死にたいと考えたのは、お釈迦様と同じときに死にたいということもあったのでしょうね。お釈迦様の道案内で、西へ行くことになったのであります。

ところで、私にわからなかったのは、この2月16日がなぜ花の時期なのかということでした。そこで、旧暦について調べ、あるホームページを参考にしてさらに500年分のデータを追加して、西行がなくなった日は、現在のいつなのかということがわかる旧暦を西暦に変換するホームページを作ることができました。計算してみると西暦1190年3月30日ということがわかりました。今はまだ西暦999年以降のものしか調べることはできませんが、こうして現在の日にちに置き換えて考えてみるのもわかりやすいのではないでしょうか。ちなみに法然上人が亡くなる2日前に弟子に求められて書いた「一枚起請文」の日付は建暦2年正月25日ですから、それを西暦に置き換えてみると西暦1212年3月7日ということになるようです。かなりイメージが違って見えてきます。

新古今和歌集のことに関連してあげました後鳥羽上皇は、平安後期に白河上皇が院の警護のために作った「北面の武士」に対して、「西面の武士」を置き院を守らせました。また後鳥羽上皇はここ新庄村とも関係の深い人物でございます。わずか4歳で天皇になった後、19歳で上皇になられたようであります。23年間の院政ののち、鎌倉幕府を倒して公家勢力による政治を目指し、1221年に承久の乱を起こしましたが、幕府勢力に敗れ、京都から西のここ新庄を通り一休みされた後、隠岐に流されました。西への旅が政治生命の終わりともなったわけでございます。

「西へ行く」というお話も一本道の話とはなりませんでした。これはいつものことですからお許しいただくとして、私たちもまた西へ参ります。すでに西へ旅立たれた人たちの法要を行ったわけですが、阿弥陀仏・諸仏、そして私たちよりいち早く仏になられた方々が、私たちを無事、極楽浄土に導いてくださいます。この西への導きは心の平安を与えてくれます。そのことを心に刻みながら皆さんとともに10回の念仏を称えて終わりにいたしましょう。「同唱十念」

補足(2003.3.22):写真はフウセンカズラの種です。写真は,法話にはほとんど関係ありません。 この実はあるところから見ると白く見えるけど,別の角度から見ると,黒く見えるんですよね。黒いと見えることも違った角度から見ると白く見えたり,白いと思ってたことが角度を変えると黒く見えたり,そんなことはたくさんありそうですね。そんな思いと,角を立てずに,みんなま〜〜るくなればいいのでは,というメッセージを込めて写真を載せました。ご感想をお寄せください。 <念佛寺のホームへ戻る>  <法話一覧に戻る>  <旧暦から西暦へ変換>