この花も真似てみたいなギヤマンで #kigo #jhaiku #haiku #photoikku #hana

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オキナグサ。翁草。
見るだけで柔らかさが伝わってくる。
ギヤマンでどこまでできるのだろう?
形は作れそうかな。
ギヤマンはギヤマン。
他の形を真似てもそのもののよさまではなかなか真似ることはできない。

カタバミの傍らに来てひと休み #hana #jhaiku #haiku #photoikku

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背丈の高い草花もあれば、地面を這うような草花もある。
いろいろ。
丈の低い草花はやはり、しゃがんで見るのがいい。
丈が小さくて花も、大きいものから小さいものまでいろいろ。
みんなこんなにも上手に咲くものだ。

あの雲が我が子に見えると茄子の花 #kigo #jhaiku #haiku #mysky #photoikku

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新庄富士の笠杖山の近くに漂う雲が、茄子に見える?
ナスの花ばかり見てると、雲までが出来上がった実に見えてしまうのか。
茄子の花には無駄花がなく、すべてが実になるという。
いまから料理方法を考えておくのも良いかもしれぬ。

ユウスゲと遊ぶクモをスケッチし #hana #jhaiku #android #photoikku

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androidのカメラアプリCamera360で撮影したあと、スケッチ風に変換。
こんなスケッチがかけると楽しいだろうに、と思うことをスマートフォンの中でやってくれるから、助かる。
ただ、この花はユウスゲ(夕菅)とかキスゲ(黄菅)かなと思うけど、栽培品種なのだろう。

テッセンが花回廊に咲き誇り #hana #flower #jhaiku #haku #photoikku

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とっとり花回廊のテッセンのエリアに満ち溢れていた。
テッセンにもこれだけたくさんのふしぎ品種があることを初めて知る。
一重から八重までさまざま。
テッセンの花の色もさまざま。

七日経ち伸び伸び泳ぐメダカかな #jhaiku #haiku #photoikku

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つれあいが知り合いから頂いてきたメダカの卵。
聞いたとおり、1週間で卵からかえった。
初め2匹ほどだったのが、あっという間に、10〜20匹に増えていた。
これがどれだけ生き延びていくものか、初めての体験。

満月の入日を急かす芒種かな #kigo #jhaiku #mysky #haiku #photoikku

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満月だというのにまだお日様は残っている。
せっかくの月の輝きも半減してしまう。
これからは田植えも始まるというのに、まだ麦の残っているところもあるのか?
早くしてよと願いは強くなるばかり。

水ぬるみ苗待ち暮れる代田かな #kigo #jhaiku #haiku #photoikku

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田水を引いて、冷たい山の水は次第に温められていく。
お日様の力、地面の力。
今日一日たっぷり照らして下さったお日様も、一日の仕事なし終えて、静かにお休みになろうとしている。
また明日頑張るからねと、笑顔を振り向けて。

代田引く山と神とに見守られ #kigo #jhaiku #haiku #photoikku

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田は水を入れる前から何度も耕され、水を入れてからも土を細かく耕している。
上から上から、田に水が当てられていく。
まさに水田となっていく。
そして水田は鏡となる。
太陽を照らす大鏡となる。
太陽はこの水田の鏡を見て、自分のホクロがどこにあるのかを確かめているのかもしれない。
神社にも鏡が祀られている。
遠くに見えるこんもりとした杜にはお社がある。
山々に降った雨は、小川となり川となり、細い水路を通って田に引き入れられる。
水路の整備、田の畦の草刈り。
いろんな作業をしながら、代田になっていく。
山奥から山奥から、田植えが始まり、里へ里へと、田植が繰り広げられる。

サンザシを夏バテ防ぐ印籠に #kigo #jhaiku #haiku #hana #photoikku

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サンザシの花を始めてみる。
昨年、知り合いから頂いたもの。
消化吸収を助ける漢方にも利用されるという。
これから夏バテになる人もいるという。
私にはそういうものがない。
夏でも相変わらずよく食べることができる。
時には食欲ないわ!、と食べる量が減ると身体にはいいのかもしれないが。

夏服や吸い込まれそう青い空 #kigo #mysky #jhaiku #haiku #photoikku

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6月は衣替えの時。
気温不順でいつから夏にしようかと、思い悩む時期。
こんな青空がいつも出るようになると、夏服バンザイ。
でも、鬱陶しい梅雨が待ってますね。
今年も元気に乗り切りたいものです。

いとおしい妻子のもとへ雪の中 #jhaiku #haiku #book

 『鉄道員(ぽっぽや)』の映画がテレビで放映されたときに見始めて、そのゆったりとした流れに乗れ切らず、途中でやめてしまった。最近、妻から何度となく「『鉄道員』を読んでみたら?とってもいいよ。」と言われながら、映画の印象からか、なかなか気が進まなかった。それがある日、一人で休日を過ごすことになり、退屈に思い、『鉄道員』を手にした。とっても良かった。

♪汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ♪
この歌が、すぐ浮かんできた。
 モクモクと黒い煙を吐いていた汽車を動かしていた鉄道員の佐藤乙松が駅長として、定年を迎えようとしていた。
ぽっぽやは、生まれたばかりの娘雪子を病気で、そして妻の静枝にも先立たれた。廃線間近の終着駅の駅長ゆえに仕事を優先させ、子や妻の死を傍で見送ることができなかった。
その後悔が、雪の日に忘れ物を取りに来た少女に優しく振舞うが、過去の後悔の念の罪滅ぼしとも思える。

 最愛の人を失う時の気持ちはどうであろうか?
 そして自分の死を迎える時はどんな思いが呼び起こされるのだろうか?
 さらに分かれていく愛する人へどんな思いを届けようとするのか?
 この主人公の「ぽっぽや」乙松は、最愛の娘や妻を亡くした。それも駅長という仕事があり仕事を優先するあまり、娘だけでなく自分を支えたであろう妻との別れに際しても、傍にも寄り添えずにいた。なぜ仕事を優先したのであろうか。廃線間近の終着駅の駅長だからか。廃線になるまでは、駅を守ろうとしたのか。利用者にはいい顔を見せ、家族にはそっぽを向いたのか?
 私も両親を亡くした。父が亡くなる時、私は仕事をしていた。急変を聞いて駆けつけた時には間に合わなかった。母が亡くなる時は辛うじて亡くなる直前まで手をさすり呼びかけながら送ることができた。しかし呼びかけても返事もなく、静かに息を引き取る母の姿に、自分の無力さを痛感した。母に対してできることは、手をさすりながら傍についていることを感じてもらうこと、浄土の世界に生まれるとことを願って、南無阿弥陀仏の念仏を唱えること、それくらいしかできなかった。
 乙松は家族との別れより、仕事を優先させてしまった。私はそうありたくない。舞台人が「舞台の上で死ねれば本望だ」という言葉を発するたびに、そこまで芸に打ち込める人は素晴らしいとも思うが、私は家族に見守られながら往きたい。私は最愛の人との別れにはすべてを投げ出すだろう。
 妻子との無念の死別、駅で静かに息を引き取った乙松の姿に、汽車のボーっという寂しい警笛と冷たい雪が重なってしまい、何度となく涙してしまった。