頭垂れもういいかいと稲が待つ #photoikku #jhaiku

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メルヘンの里新庄村のあちこちの田んぼでは、稲がすっかり黄金色になってきました。
今年は穂の出る時期なども天候が問題なく、平年作以上なのかもしれません。
昨日の朝、撮影した写真ですが、夕方には別の田んぼでは稲刈りが始まっていました。

一日の笑顔健気なムクゲかな #hana #photoikku #jhaiku

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次々に大きな花を咲かせるムクゲ。
木槿。
長く咲いているように見えるけれども、花は一日でしぼむという。
とてもそんな風には見えない。
たった一日の命だけれども、ムクゲの花は、精一杯の笑顔を見せてくれている。

人肌が恋しくもあり猫もまた #cat #photoikku #jhaiku #neko

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夜となり窓から入る風は涼しくなってきた。
猫たちも最適な場所を求めて、あっちこっちに動いています。
トラジも、お気に入りの場所にやってきています。
甘えん坊のトラジです。
人は誰かから求められると、何とかしてあげたいと思うものですね。
人に擦り寄るのが上手なトラジです。
そのコツを学びたいものです。

白兎お月見しつつ母思う #photoikku #jhaiku

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妻のパッチワーク作品です。
この白兎さんは、月を見ながら故郷の父母がついてくれているお餅のことでも思い出しているのかもしれません。
傍にはお団子があるのに。
お餅といえば、新庄村は姫のもちがよく知られています。

新庄村の餅つき隊はみなさんの街にも行ったでしょうか?
たぶんお月さんにはまだ行ってないと思いますが。

褪せた色取り戻したい処暑の路 #kigo #photoikku #jhaiku #hana

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道端に茄子のやうな花。ワルナスビ。
花は少し青みがかっていたが、周りの花は白かった。
夏の暑さで色褪せているのだろうか?
写真ではわかりにくいのかもしれないが、写したものは少し青みがかっていた。
茎に棘がいっぱいあるのが良くないよね。
だから悪茄子なんだろうけどね。
これも、 家畜の飼料などから外国から入り込んできたものだという。

「ともいき(共生)~地蔵菩薩と山の神の錫杖」の法話をアップしました。

ともいき(共生)~地蔵菩薩と山の神の錫杖 「浄土宗摂取山念佛寺法話」に、16日の施餓鬼会法要で行った法話を載せました。

ナラタケとツチアケビ(土木通)の不思議な関係。植物の中で共に生きようとする姿を、人間世界にも感じました。

今年は百日紅が見事に咲きました。一つの幹から枝分かれし、たくさんの大きな花穂をつけました。福楽商店の根周りの活性化治療のおかげだと思います。幹は一つですが、土の中にはたくさんの根が張り巡らされて、百日紅の木を生かしているのです。ちょうど今の私の前には両親がおり、その両親には又両親(祖父母)がいる。一人の前に2人、sらに4人、さらに8人、16人、32人、・・・・・と増えていきます。これらの先祖の誰ひとりが欠けていても今の自分はこの世に存在しないのです。ご先祖様のすべての命が私の中で生きているのです。そして私の後にも続く命がある。

どうぞ、法話のページをご覧ください。

浄土より散華の如く百日紅 #hana #photoikku #jhaiku

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百日紅(さるすべり)の花が見事に咲いてきた。
昨日の大雨で花の房が水分で重くなり枝が垂れ下がってきています。
極楽浄土では鳥が啼き華が舞い散り、阿弥陀佛の教えを広めているといいます。
今朝、念佛寺の境内にある百日紅の木にたくさんの花が咲きました。
4月に倉吉市の福楽商店さんに根周りの活性化治療をしていただいたのが功を奏しているようです。

ソーセージ調理したいよツチアケビ #hana #photoikku #jhaiku

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ツチアケビは土木通と漢字で書く。
図鑑を見るとナラタケの菌と共生する腐生蘭という。
花は見たことがないのだが、今回近所の方の山に実がなってるからということで案内してもらった。
図鑑で見たこともあったがまさか実際に見えるとは思ってもみなかった。
ウィンナーソーセージがたくさんぶら下がっているようだ。アケビのように食べることができたらいいのだろうが、食べれるとはどこにも書いていない。
また機会があれば、花も見てみたいものだ。

サルナシに抗癌作用あるときく #hana #photoikku #jhaiku

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新庄村産のサルナシには抗癌作用があると岡山大学の成分分析が出たそうだ。
写真は新庄村の山に自生しているサルナシを手をかけて育てているお宅の木とその実です。
ワインを作ることもしたり、焼酎漬けや酢漬けで飲むのもいいようです。
自生種は実のつき方はあまり多くないのが、残念です。
でもこうやって棚を作って枝を張るようにすると、収穫量は増えそうです。

お別れする人には花の名前を教えておきなさいって。花は毎年、必ず咲くからっ て。有川浩 #book #dokusyo

有川浩『三匹のおっさん ふたたび』の最後に収められている『好きだよと言えずに初恋は、』の中から。

<<<<<< 「渡し忘れたっていうより、教え損ねた。花の名前。何で教えたかったかっていうと・・・・・」 彼は少し言い淀んでから顔を上げた。 「うちのお母さんが、お別れする人には花の名前を教えておきなさいって。花は毎年、必ず咲くからって」 まっすぐに静かな眼差しを向けられて、心臓が早鐘のように鳴った。 割れそうだ。 ・・・・ (女子高に入ってから) 現国の教科書に、川端康成の『雪国』が一部抜粋で載っていた。 教師はウンチク好きで、筆者の略歴を説明するとき小話をあれこれ付け足した。 その小ネタの中に、川端康成の言葉があった。 別れる男に花の名前を一つ教えておきなさい。花は必ず毎年咲きます。 不意に苦くて甘い思い出が蘇った。 小学校の卒業間際、転校が決まっていた潤子にちっぽけな花の名前をいくつも教えた男の子。 教科書の文字か滲んだ。ページの上でパタパタと水が弾けた。 >>>>>>>

花の名前を教えることで、その花を教えた自分を思い出してもらいたい、思い出させたい、ということだろう。
まさに潤子は思い出した。好きな人だったから一生懸命に教えてくれたんだということに改めて気づいた。

いじめられている生徒がいても、周りを気にせずいじめられている生徒に関わろうとする生徒がいてくれると、いじめもなくなるのだろうに。

気づけば謝るのを憚ることはない。有川浩 #book #dokusyo

有川浩『三匹のおっさん ふたたび』2012/3/30初版。2012/4/15第3刷。文藝春秋

<<<<<<<<<< 「優雅だな、とか俺いらんこと言っちゃって。そっちは土日も働いてるんだもんな。後で貴子に話したら怒られちゃって」 悪気なく大雑把だが、気づけば謝るのを憚ることはない。そういう性格だ。 >>>>>>>>>>

健児の話を聞いて怒る妻貴子、貴子の言葉を素直に聞き、年下の康生に謝る健児、こういう人たちと関係の持てる康生。
みんなで幸せの輪を広げて確かなものにしてる。こうありたいですね。

心ない自分、心にかかるトゲ。有川浩 #book #dokusyo

有川浩『三匹のおっさん ふたたび』の一節。

<<<<<<< 自分もかつてそんなふうに慈しまれていたことが改めて思い返される。 そのたびに幼い日の心ない自分が立ち上がってきて自分を責める。それは、子供だったからと逃げを打つことが許されないような気がする心にかかるトゲだった。 >>>>>>>

自分の子供をあやしてくれている父親の姿から、自分が子供の頃そうだったということを改めて思い起こし、父親に反発したことを、心にかかるトゲと言っているのだろう。子供だからと今は逃げることもできなくなった。
このトゲはどうやったら抜けるのだろうか?抜いたあとしばらくは化膿するのだろうか?
この先が楽しみだ。

私の両親はもういなくなってしまったが、お盆を前にして心のトゲを一つでも抜いていきたいものだ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

月のこり雀はあちら今朝の空 #photoikku #jhaiku #mysky

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気持ちの良い朝。6時過ぎの写真。
稲の上には雀が稲穂を吸いに来ないように脅しがぶら下がっていた。
空には名残惜しそうに月が残っている。
朝は清々しい新庄村。
これからまた暑くなるのだろう。

ねむの花いろんな思い包み込み #hana #photoikku #jhaiku

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ネムの花、ふんわりと咲いている。
ねむの木も全体が丸く何かを包んでいるように見える。
外からの力に対して、一瞬にして身を縮め、しばらくじっとしている。
そしてまた元に戻る。
花は木の一番上で、空に向かって咲いている。
下の方で起こっていることなんか、何も気にしないように。

花のように見えるのは、宇宙への電波発信のアンテナかもしれない。
地球で起きているあらゆる事を発信している。
電波発信基地は次々に増えていき、より細かな情報も伝えられていく。

たくさんのいいことを発信してくれてるかな?

夏の月一目会いたし私らも #kigo #photoikku #jhaiku #fhaiku #haiku #flower #hana

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シベリア朝顔、曜白の朝顔はかわいそう。
夏の月が綺麗だよ、って言われても私たちは見ることができない。
どうして?
見たいなぁ。