(カウンタ2003/6/5設置)

モモのつれづれなるままに

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1.モモ

   

 私の名前は、モモ。年齢はどうもよく分からない。以前は,野良猫として、りっぱな生活をしていた。

家に入り込んだ頃の私(モモ)

1997.8.20の私

 ところが、小学校で遊んでいた時に、この家の女の子がやって来た。私を見つけるや遊んでくれ、牛乳まで持ってきてくれた。私はすっかり、この女の子たちが気に入った。この家までとことこついてきた。それが、今の私とこの家族との出会い。

 1997年8月19日。これが私が、この家の住人となった日。はじめの2,3日は、夜になると、外へ追い出されていた。これもやむをえないと思ったが、私は諦めなかった。家の人達もそんな私を受け入れてくれた。

 そのうち、私に名前がつけられたようだ。『モモ』。変な名だと思ったが、今まで名前のなかった私は嬉しくて、主人たちの足元に頭をすり寄せていった。2番目の子が、ミヒャエル・エンデさんの『モモ』という本が気に入っていたらしく、それでついたようだ。ご主人様も、その本を読んでいたらしく、すぐに決まった。でも、その本に出てくる主人公は、女の子であるという事を、私は後で知り、ビックリした。私は男なのに!!!

 ご主人様が、またパソコンをしにやってきたので、今回は、これでおしまい。また隙があれば、書いてみるからニャン。(2001年7月3日)

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2.ホタル

 何度か、ご主人夫妻と散歩に出たことがある。「ご主人」というのも、今ひとつしっくりいかないから、「かんちゃん先生」と呼ばせてもらおう。先生というのがわかったのは、年に何度か、試験問題を作らなければいけないと、パソコンに向かっている姿を見てわかったのだ。

 ともかく、その散歩の経験と、私の野良猫時代の放浪との経験を生かして、先日の夜、一人で散歩に出た。新庄川の堤防をずっと下って宝田橋、今井橋へと差し掛かる頃、川の上に明るく光るものが、スーフワッ〜、フワ〜ス―、と、たくさん飛んでいる。ホタルだ。捕まえてやろうと、じっと見つめていたが、中々こちらに向かってこない。来たかと思っても、すぐに、フワッ〜とよけてしまう。飛びつこうと思ったけど、川に落ちてしまったら大変だ。私はどうも、水にぬれる事が嫌いである。

 でも、とろうと思うことを諦めて、眺めていると、心が落ち着いてくる。ホタルの一生がどのくらいなものか、私にはよく分からないが、この時期だけしか目に入らないから、私より、はるかに短い寿命なのだろう。でもそんなこと気にする様子もなく、今を楽しんでいるような気がする。私は、何か動くものがいたら、爪で引っ掛け、捕まえて、口に入れようかなんて思いながら、中々思うようにいかないから、イライラしてしまう。ホタルのように、ゆったりと過ごせば、もっと気が楽になるのかなぁ?

 かんちゃん先生が、コーヒーカップを手に持って、メールチェックにやってきたようだ。ここまでで,モモとしても遠慮しよう。(2001年7月5日)

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3.恥ずかしい事

 かんちゃん先生の家に住むようになってまもなく、私は夫妻によって、車に乗せられた。初めてのことで、周りの景色の移り行く様子は、ものめずらしかった。私が走るよりはるかに速かったし、今まで見たこともないような景色が続いた。
大きな鈴をつけた私(モモ)
大きなカウベルとすましたモモ

 しだいに不安になった。どこへ連れて行かれるのか?以前の記憶がよみがえってきた。仲間たちと引き離され、遠くに捨てられてもとの住みかに戻れなくなってしまった、つらい寂しい記憶が。また同じことなのか。不安で何度も何度もなき、かんちゃん先生の手から離れようとするが、先生はよけいに強く抱いて、
 「モモ、大丈夫だよ。泣かなくていいよ。おまえが、誰かに妊娠させられちゃ困るから、お医者さんに見てもらうんだよ。」
と、優しく言ってくれた。でも、私は、
 「そんなことない。それは絶対にないよ。大丈夫だよ。」
と、必至で先生に訴えたが、先生はわかってくれない。
 「大丈夫だよ。安心して。手術してもらおうな。」
と、言っている。
 「違うんだったら。」
いくら私が言っても、わかってくれない。
 
 30分ほどたったのだろうか。私は、とある、小さな診療所についた。そこには、白い服を着た優しそうな人が二人いた。夫婦だろうか。でも、私は、初めての車に揺れ、そのことで、まだ車に乗っているような気がするのと、ここで何をされるのだろうかという不安とで、かんちゃんの手から離れ、近くにあったソファーの下にもぐりこみ、腰をかがめていた。というより、腰が抜けたような状態だった。

 かんちゃん先生も、奥さんのゆみちゃんも、不安そうに、でも必死に私を捕まえようとし、逃げ惑った私もついにつかまってしまった。
 白衣の男の人も、私を優しくベッドの上に仰向けにし、私の下腹部に手をやった。
 「あれっ?」
 「こりゃ、雌じゃあないで。雄だ。」
それを聞いたゆみちゃんは、
 「えっ?オスなんですか?メスじゃないんですか?」
 「間違いなく雄です。」
と、白衣の男の人は断言した。かんちゃんもゆみちゃんも、あっけにとられたような顔をしている。
 「でも」
と白衣の人は、続けて、
 「男だけど、タマタマがないなぁ。手術をしてるんだろうか?それとも、まだ幼いから腹の中にタマタマがあって、これから下りてくるんだろうか?毛をそってみると手術しているかどうかわかるけど、どうしますか?」
 ゆみちゃんも、かんちゃんも、私が雄だってことをよく見ずに、連れてきたもんだから、かなり恥ずかしかったようだ。私も、ふぐりを触られて恥ずかしかった。ゆみちゃんは気持を切り替え、
 「それで、先生。お腹の中にタマタマがあると、どうなるんですか?」
と尋ねている。この白衣の男の人は、かんちゃんとは違うタイプの先生らしい。その先生は、
 「この猫の、年がはっきりしないからなんとも言えないけど、そのうち下りてくるんじゃないかな。」
 「下りてこなかったら、どうにかなるんですか?」
 「お腹の中にずっと残っていたら、ガンになるかも知れんな?」
 「えっ?」
 「気になるんなら、またそのうち見てあげますよ。すぐにどうこうという事じゃないし。」
かんちゃんもゆみちゃんもその言葉を聞いて、安心したらしく、私の治療費の事を尋ねていた。不要だと告げられて、申し訳なさそうに再びかんちゃんに抱かれて、わたしはそこを出た。だから妊娠なんてしないって言ったのに。わかってくれないんだから、二人とも。雄か雌かの違いくらい知っておいてちょうだいよ。ネコを飼う者の常識ですよ。
 帰る車の中で、二人とも、「な〜んだ。よかった。」といいながら、笑っていた。妊娠はしないことでホッとしたのと、今まで、雄やら、雌やら、わからないまま私のことを雌だと信じて疑っていなかった事の恥ずかしさを、笑ってごまかしていたのだろう。やれやれ、世話の焼ける主人たちだ。
 私の短い指で、キーボードを打つのは疲れてしまう。ついつい他のキーに触ってしまうから、間違って打っている字があるかもしれないニャン。もう疲れたから、これで私も、寝よう。きょうは、このいすでこのまま寝ようっと。(2001年7月10日 1:12:59)

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4.私の鈴

 私には、何度となく鈴がつけられてきた。この家にやってきてまもなく、かんちゃん先生が、「野良猫と間違えられたら可哀想だから」といって、首輪と小さな鈴がセットになったものを買ってきてくれた。

 「これでやっと、私もこの家の住人だ。」

と、私は思った。野良猫を廃業して、買い猫となったことが実感できた。本当にうれしかった。

今まで、人を見ると、「何かいたずらされるんじゃないか?」と心配して、よけていたし、「今夜はどこで寝ようか?」「雨が降り出したが、どこで休もうか?」などと、気の休まるところがなかった。

 首輪をつけ、小さな鈴をかわいく鳴らし歩くのは気持ちよかった。ちょっと邪魔臭いけどね。首が痒くなってもうまくかけないのが、一番不都合だ。でも、そんなことは小さなこと。小さな子供が近寄ってきても、これ見よがしに、鈴を振って見せる。すると、子供たちも、

「この猫、ここの猫かなぁ?」

などといって、今までと、私に対する態度が変わってきたようだ。でも、中には、そんなことにお構いなしの子供もいるかな?

 さっき、何度となく、といったが、私がよく首筋を掻くものだから鈴が飛んでしまうのだ。時には、野良猫たちと、にらみ合い、ケンカをすることもあるから、知らぬ間に飛んでなくなっていることがある。そうすると、また、新しい鈴をつけてくれる。

 上の写真の鈴は、大きなもので、音も大きい。近所の人も、この音をよく覚えてくれていて、

「モモちゃんは、きのう晩、この辺を歩いていたようで」

と、ゆみちゃんに教えてくれたりする。親切な人が多い。

「この鈴、カウベルみたいだな?」「重そうだな?」なんて言う人もいる。そのたびに、かんちゃんやゆみちゃんは、気になって、「小さいものにしようか?」なんて相談している。大した事ないんだけどな。

 ただ、私が、面白半分に、トカゲだとか、蝶々とか、小鳥とかをねらって、頭を低くし、飛びつけるように、後ろ足に力を入れ、お尻をプルルルッと震わせる時に、「チリン」と鳴ってしまうから、せっかくの獲物が逃げてしまうのが、残念である。でも、そこは考えようかもしれない。私が獲物を取るのが下手なのを、鈴のせいにできるという利点もある。獲物を逃がしたのを見て、ゆみちゃんたちは、

「モモは,獲物を取るのが下手だなぁ。」

と言っている。私は、「腕じゃないよ。鈴が悪いんだから。鈴のせいで、逃げちゃうんだ。」と、いくら言っても、ゆみちゃんやかんちゃんは知らん顔をしている。

 私のような大きな鈴をつけた猫はこのあたりにいないから、私の鈴の音を聞いて、近所の人は、

「あっ、念佛寺の猫だ。」

「モモちゃん,どこへ行くん?」

私は、少し立ち止まって、振り向くけど、せっかくのデートの待ち合わせに遅れてしまってはいけないので、挨拶もそこそこに、先を急ぐ毎日だ。どうして、人間というものは,私たちのこの言葉をそして気持をわかってくれようとしないのだろうか。

床に寝るモモ

自分たちが一番この世の中で偉いんだと奢りすぎているのではないだろうか。人間に人権があるように,猫にも人権いや違うか,「猫権」が認められてもいいはずなのだが。いやいや待て待て,「人権」「猫権」などという狭い了見ではなしに,「動物権」まだ狭いか?もっと広く,「生物権」などというものがあってしかるべきだと思う。誰か,今度の参議院選挙で,こんな事を主張している人いないのかな?そうすれば,私は必ず応援するんだけどニャ〜。

このごろ,暑い日が続いて,このパソコンの部屋も狭いし全く暑いものだ。どれ,この辺で,終わりにして,床にでもゴロンと横になって鈴もう,いや変換ミスだ,涼もう。(2001年7月14日 22:25:09 )

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5.長い梅雨,もういや

 どうしてこんなによく雨が降るの。きょうはゆみちゃんに,「モモは,ず〜と家の中におるが。ちっとは外へ出たら?」と言われてしまった。その時は,台所のテーブルのいすで休んでいたところだ。仕方なくいすから降りたものの,背伸びを一つやっただけで,えさを一口つまんで,床に寝そべったり,うろうろしていた。私だって,こんな狭い家にいるより,外でのびのびしたいんだよ。でも,最近の雨はきつすぎる。おまけに,ここのところよく雷が鳴り,今にも落ちてきそうだ。こんな恐ろしい外へ,とても出る気にはならない。私は,大きな音は大嫌いだ。

 最近知った事だが,猫も人様の役に立っているようっだ。中学生あたりでも,体育の時間にラジオ体操というのではなく,ストレッチ体操というものをしているらしい。かんちゃん先生も,時々,腕をあっちやこっちにやったり,しているのは,どうもその影響らしい。私たち猫たちがずっと以前から,寝起きに心がけている,背伸びというのは、このストレッチだったのだ。人間もやっと猫から学んでくれた。猫のように、時々ストレッチをやっていれば体の関節が痛いなんていわなくてすむということをやっとわかってくれた。

 かんちゃんが、いすを引いて、食事に着こうとしていたので、配膳をしている隙に,先にいすに上がった。このいすはとってもいい。脇や背中をなめて毛づくろいをするのに、座布団に爪がかかって、体が安定する。最近5kg以上になって、どうもなめにくくなったから重宝する。でも、かんちゃん先生は、私と仲がよいのを確かめるように、いすの隙間に座ってくる。かんちゃんの大きなお尻がドンと降りてくると、とても座っていられないから、私は仕方なく、主人にいすを譲るのだ。

 外はまた、ものすごい雨だ。あ〜あ、早く梅雨が明けてくれないかな。雷が鳴って、梅雨が明けそうなのだが、なかなか思うようにならない。耳の方も鬱陶しい。どうも、耳ダニでも住み着いているようだ。かんちゃん、ゆみちゃんが薬を入れてはくれているが、ダニが強いのか、2人の薬の入れようが下手なのか、一向によくならない。鬱陶しい限りだ。鬱陶しい事は、あまり考えないようにして、寝よう。それが、私たち猫の健康の秘訣。精神安定の秘訣だ。ストレッチだけではなく、猫の過ごし方から人も学んでくれたらいいのに。昔から「人の振り見て我が振り直せ」って、言ってるじゃないか。仕事もしない猫だけど、猫のいいところを見て、時々真似てくれたらいいんだよ。(2001年7月18日 0:59:44)  《第1集目次へ》   《ホームへ》


6.猫としての存在感

 私は、時々、猫としての存在を、この家の者たちに示している。食事の準備をしているゆみちゃんのそばで、よく寝転んで薄目を開けながら、様子を眺めている。ゆみちゃんは、

「もう、モモは、邪魔になるな〜。どうしていつも邪魔ばっかりするの!踏みそうじゃが!」

と、イライラしている。あんまり言うので、しかたなく起き上がり、ゆみちゃんの足に擦り寄りながら、自分をアピールしている。それも邪魔なのか、ゆみちゃんは、足で、私を撫でてくれる。しばらく気持ちよく、撫でさせている。そのうち、その足が、ゆらゆら動くので、おもしろくなってじっと見ている。私の、野性の本能がムラムラと湧いてくる。

「ちょっと、動きのゆっくりした獲物だけど、退屈しのぎにはちょうどいい。」

と、じっくり見据えて、手を出し、がぶりと噛みつ付いた。

「きゃ〜、モモは何をしょーるん!何で人の足を噛まんといけんの!あんたの主人がわからんの!あんたにえさをあげてるんは私なんで!バカモモ!きゃ〜〜。誰か助けて!」

近くにいた、かんちゃんもニヤニヤしているだけ。時々、「コラ!モモ!」と言うだけだ。みんな自分が、私の暇つぶしの相手になるときは、大きな声を出すけど、人の時には、喜んでみている。この家に、元、野良猫だったかもしれないが、今はりっぱな飼い猫としての、存在を示している。こんな事をやっても、私は、この家に住むことを許されている。この家にとって、モモと呼ばれる私は、みんなの「安らぎ」になっているとも言ってくれる。だから少々のいたずらは、許されているのだろう。みんなに「安らぎ」という大きな物をプレゼントしているんだから、当然と言えば当然の事だろう。家族は、お互いに、迷惑をかけながらも、目に見えるものばかりでなく目に見えない多くのものを与え合いながら生活するもだってことを,教えてあげるのが、私の使命なのだ。使命感に燃えすぎて、私も疲れたから、このへんで寝よう。でも、私も鼾をかくのかな?この前、ゆみちゃんとかんちゃんが、テレビを見ながら、私の方を向いて「モモが,鼾をかいてる!」って言ってたのが、耳に入ったが、恥ずかしかったので、寝た振りしながら、寝返りを打ってみたのだけど、きょうは、鼾をかかないように注意して寝ようかな?でもそれも疲れるから、ま、気楽にいこう。(2001年7月21日)  《第1集目次へ》   《ホームへ》


7.寂しい時には

 猫でも、寂しい時がある。人間も、嬉しい時、楽しい時、悲しい時、寂しい時,ってあるように、私だって寂しくなる時がある。「野良猫として、過ごして来たんだから、そんなことはないだろう。」って?そんなに強くはないよ。

 私、だって猫なんだもん。野良猫として、そして、かんちゃん先生の家で飼われるようになったって、わたしのお母さんもお父さんもよく思い出せない。一人でいると、お母さんやお父さんはどこでどうしているんだろう?私のことを心配してるんじゃないかと思ってしまう。人間には警察官という人がいて、行方不明者を探してくれるそうだけど、猫警察はいない。聞くところによると、犬はちゃんとした「おまわりさん」がいるそうだ。犬にはやはり勝てないと思う。猫警察がいないから、お母さんもお父さんも届を出せないし、私も警察に届けて、両親を探してもらう事もできない。だから寂しい時がある。

 かんちゃんやゆみちゃんが、テレビのニュースを見て、私のそばで話していた。「ひどい事をする親がいるもんだな。」「いうことを聞かないからって、虐待をしたり、殺したりするなんて。」どうもニュースだけではなく、ワイドショーという番組などで、盛んに報道されているらしい。そんなひどい事をする人ばかりじゃないんだろうけど、猫の世界では聞いたことがない。私が、野良猫になったのも、親に捨てられたわけじゃない。両親は私が、ダンボールに入れられるのを、ミャーミャーと泣いて悲しがっていた。その時私は、これからどうなるのか何も知らなかったから、ただ狭いところに入れられて、辛くて泣いていただけだった。でも、箱から出たときは、自分がどこにいるのかわからず、不安でとても寂しかった。

 一人で生きていくのは、とても不安だ。でも「捨てる神あれば拾う神あり。」と、人間の世界では言うそうだが、あっちゃんやよっちゃんに牛乳をもらい、この家に住めるようになったことは幸せだった。でも、時々寂しくなる。一人で眠ろうとする時、寂しくてなかなか眠れない時がある。そんな時、かんちゃんかゆみちゃんの服が私のお気に入りだ。何か手ごろなものを口にくわえて、眠ろうとする場所に持っていく。それを抱いていると、お母さんやお父さんと一緒にいるような気持になって、やがてすやすやと眠れるのだ。寂しい気持もどこかに飛んでいってしまう。おかあさんやおとうさんの匂いがするみたいだ。別に、かんちゃんやゆみちゃんが私を生んでくれたわけではない。ほんとの自分の親ではないけれど、一緒に過ごしていると、そう思えてくる。私も「男なんだ」と思い知らそうとしてやっているわけじゃないけど、かんちゃんたちが楽しそうにテレビでも見ていると、自分に注目してもらいたくて、その辺をガリガリと爪で引っかいたりする事がある。すぐ大きな声で怒られるけど、まだ虐待を受けた事はない。幼児がいうことを聞かなかったり、ましてや赤ちゃんが泣いたりするのも、自分の事をもっと見てほしいからじゃないのかな?そんなこと、ネコだってわかる。いつもゴロゴロ転がって寝てばかりのように、ゆみちゃんたちは言うけど、僕だって、こんな事を真剣に考える事をやってるんだよ。いつも。この記事を読んだ人は、ゆみちゃんやかんちゃんによ〜く伝えておいてほしい。「モモは時々寂しいようだからいつも手をかけてやってね。それと、難しい事を考えているから寝ているように見えるんだ」ってことを。(2001年7月27日 4:34:28)  《第1集目次へ》   《ホームへ》


8.キツネノカミソリ

 昨夜は、夜遅く、外から「ニャ〜」と鳴くと、かんちゃん先生が、「モモ、お入り。きょうは一緒に寝ようで。」と言って家の中に入れてくれた。ここのところ、夜遅くに、かんちゃん先生の明かりをつける気配を感じて「ニャ〜」と鳴いても,気づいてか,気づかなくてか知らないけれど、すぐに明かりが消えて静かになってしまう。この夏は暑いので、外で過ごすのも気持がいい。だからあまり私もしつこくは鳴かないのだ。ところが、今夜は違った。どうも、ゆみちゃんと子供2人が,実家のおばあちゃんの家に出かけようだ。かんちゃんもそれで寂しかったのか。すんなり入れてくれた。

 かんちゃんと一緒に歩いて、ベッドまで行く。小さな声で遠慮しながら、「ミャ〜」と言うと、「モモ、一緒に寝ようで。おいで。」と優しく言ってくれた。私は、かんちゃんのお腹から胸の上に上がり横になりかけたが、かんちゃんもちょっと私の体重にえらそうだったので、そこから降り、かんちゃんのあごの辺を1回なめた。あまり、いい味はしなかった。口直しに、私は、自分の足や身体をなめて、毛づくろいをした。そんな事をしている間に、隣のかんちゃんの静かな寝息が聞こえてきた。私も続いて寝る事にした。

 朝、かんちゃんより早く起き、一口腹ごしらえをして、外に出た。とってもさわやかな朝だ。家の裏には、たくさんの墓地があるのでそっちへ行ってみた。オレンジ色の、キツネノカミソリがたくさん咲いている。どうしてこんな名前がついたのか、知らないが,私にはちょっと怖い名前だ。この前も,かんちゃんとゆみちゃんが「キツネノカミソリがようけ咲とるで。子供の頃は、この花を彼岸花というんかと思っとたのになぁ。」「実家のがけから、ヒガンバナの球根を持って帰ったこともあったのに、結局つかなんだなぁ。やっぱり新庄は、寒いけーな。」なんて、しゃべっていたのを聞いたことがある。このお盆の時期に咲くのは、「キツネノカミソリ」っていうんだと、この前知ったばかりだ。

 お盆の前から、この墓地には、たくさんの人がやってきていた。墓掃除、草取り、そして、花を入れ、供え物をし、線香や灯篭に火をつけに来ていた。久しぶりに帰ってきたような家族たちといっしょにお参りをする人もいた。それも今は、ひっそりとしている。私も、気楽に墓地を散歩できる。のどが渇けば、お墓の上に上がって、「ナムアミダブツ・ナムアミダブツ」と唱えながら、(人にそのことがわかってもらえないから誤解され辛い思いをすることもあるが)水を飲んだり時には、お供えをしてあるお菓子に手を出すこともある。でも時々、罰があたったのか、口の中に異様なものを感じ、ちくりと痛い思いをすることもある。慌てて吐き出してみると、黒い大きな蟻だ。痛いはずである。お菓子に寄って来ていたのだ。「アリさんごめんなさい。」こんなことをしている間に一時がたってしまう。墓の後ろの崖では、キツネノカミソリが、私の様子をいているようだ。(2001年8月19日 10:58:12)  《第1集目次へ》   《ホームへ》


9.猫だって高いとこ怖い (2000年5月20日におきた出来事)

 モモと呼ばれて、この家にいい気になって住んでやっている。時にはゆみちゃんにからかわれて、追っかけられるけど、とても居心地がいい。ある時、裏のほうを歩いていると、以前から「ここはすぐ飛びつけそうだ」と思っていた屋根に、上がってみようと思い立った。よくは分からないけど、自分は高いところからでも平気で飛び降りれるような気がした。親は小さい時に分かれたきりだから、そんなことを教えてもらった事があるのかどうだか定かではない。何となくできモモ本堂の屋根に上がるそうだった。飛び上がってみると、案の定簡単だった。屋根のかわらを歩いていると、次々に冒険がしたくなった。屋根はどこまでも続いていた。ついに、この家で一番高くまで続く本堂の屋根にたどり着いた。

 ところが、この屋根瓦は、今までのかわらと違って、よく滑る。傾斜もきついということもモモ本堂の屋根で不安で鳴くあるのだろうが、なんか滑り落ちそうだ。下のほうは、お墓なんかもあって、すぐ飛び降りれそうな気もするが、そこまで飛ぶには足元がしっかりしていないと怖い。その足元がこれだから、とてもではない。油断すると、すぐずるずると滑ってしまう。怖くて、ミャ〜ミャ〜と泣き叫んだ。なかなか誰も来てくれない。落ちても身体をまっすぐ立て直して降りれそうだが、今まで巡視してきた経験からすると、この下はさつきなどの植木があって、大怪我をしそうなことは容易に判断がつく。それだけに、とても不安で、みゃ〜みゃ〜みゃ〜と鳴きつづけた。

 かなり時間がたって(自分にはものすごく長い時間が経過しているように思えた)、よっちゃんが見つけてくれた。小学生の彼女には、どうする事もできないようで、すぐお母さんの由美ちゃんが連れてこられた。そのうち、かんちゃんも駆けつけてきた。ゆみちゃんかんちゃんも初めは笑っていたが、僕の状況を見て、真剣に考えてくれ始めた。「モモ、大丈夫?動いちゃだめ!もうちょっと上に上がってごらん。」
モモ本堂の屋根で仁王立ち そう言われても、ましてや、猫の僕としても、こんな無様なところを人様に見られたくなかった。でも今、そんなことを考えるゆとりさえなかった。ちょっと動こうとすれば、ずるずるっと足が滑るのだからたまったものではない。猫としては平気でこんなところを歩いて見せびらかせたいのだが、とてもとても。

 そのうち、かんちゃんは、はしごと、こともあろうに、カメラまで持ってきた。「一体何を写すつもりなんだい!まさか、僕の怯えているところを撮ろうというのではないだろうね?」そんなことも、おちおち考えるゆとりはなかった。かんちゃんが、はしごを上って僕のほうに手を差し伸べて、「モモ、おいで!」と言うのだが、「そっちにはいけないよ。かんちゃん、もっと上に上がってきてくれよ。」と訴えても、分かってもらえない。かんちゃんもどうも高いところは怖いようで、あまり上に上がってこようとはしない。彼も体重が結構あるみたいだから、はしごが折れはしないかと心配なんだろうか。そんなことをしながらも、下のほうではこちらにカメラを向けている。新聞記者にでもなったつもりなんだろうか。

 さらに、かんちゃんは長い棒の先に洗濯カゴ(これは僕がよく入り込んで昼寝をしているカゴでもある)をつけたものを持ってきて「モモこの中にお入り!」と叫んでいる。でも角度がよくないし、そのカゴに動こうと思うと落ちそうでとても近づけない。あっちゃんがはしごを上がってきてくれて、手を差し伸べてくれた。さすが中学生だから、かんちゃんよりはるかに身軽と見える。やっと僕は、人の手の中に抱かれる事ができた。

 「モモって、意気地がないな」「猫なんだろう?落ちたって平気なはずなのに」「でも落ちたら植木で大怪我だよ。」「子供が小さい時によく読んでやっていた『しょうぼうしになった猫』?かな、あれみたいに、高い木に登ったのはいいけど降りれなくなって助けられた猫が、消防士と一緒に活動するってのがあったな」「でもよかった」「もう上がっちゃだめだよ。本堂の屋根はキュウなんだから。」なんて言われながら、家に戻った。しばらく腰が抜けたような感じで、いつもより鼓動が大きく速く打っている。「もう二度と屋根になんか登らないぞ」いくら猫は高いところでも平気だと周りが言っても、僕にはできないし、あの屋根じゃ誰もあがれっこない。もう1年も2年もたっているから、こんな事もかけるようになったけど、なかなかこのことは、秘密にしておきたかった。でも、またどこかの猫が、僕と同じ過ちをしてはいけないと思うから、このことを公表する気になった。ちょっと恥ずかしいけどね。念佛寺の屋根に誰も登っちゃだめだぞ。でも、こうして無事にいられるのも、阿弥陀さんのおかげなのかね。

 自分にはできると思って、強がりですることが如何に危険か、よく分かった。周りの目を気にして行動するのもよくないね。そして、「猫だからこうだ。こうあるべきだ。」なんて思うことも違うね。みんな違うんだよ。念佛寺の屋根に登れる猫だって、この広い世界に入るかもしれないが、それはそれでいい。できる猫がいて、できない猫がいる。人間だってそうに違いない。今回思い切って僕の恥ずかしい事を書いたけど、僕が、ぶらぶら歩いていても、みんな僕のことをからかったりしないでね。念佛寺の屋根から飛び降りる気持で、やっと書いたんだから。そういえば、かんちゃんもよくやるね。どれくらいの人が見てくれるかわからないホームページに掲示板まで作ったって言ってた。それも「やすらぎ掲示板」だって。やすらぎは僕で十分だろうに。これを読んだ人は、僕の感想でも掲示板に書いてあげて。かんちゃんは単純だから大喜びするよ。きっと。「みんな違っていい」なんて、誰かの言葉をかんちゃんはよく言っているけど、人のまねをだいぶしてるね。彼は。困ったものだ。(2001.9.12)   《第1集目次へ》   《ホームへ》


10.ヒガンバナ
 (彼岸花、曼珠沙華)

 いつも私がうずくまって、道を通る車をチェックしたり、かんちゃん先生の帰りを待っているヒガンバナ場所がある。そこに数日前から見慣れない赤い花が咲き始めた。6本ほどだ。休みの日、かんちゃんはゆみちゃんに「ヒガンバナはいつ頃だったかなぁ?確か新庄に引越してから彼岸花が新庄にないけぇ、勝山の実家の土手から球根を持って帰ったように思うけど。」「もう6年くらいになるのかなぁ?今年初めて咲いたのを見るようなけど?」「新庄の気候に慣れるのにこんなに時間がかかったんかなぁ?」と言っていた。そばで聞いていたあっちゃんが「彼岸花を取ると火事になると言うんじゃないん?」かんちゃんは「それは違うでぇ。昔、江戸時代の頃はよく飢饉などがあって、お百姓さんがその時に飢えをしのぐために球根を食べる必要があったから、大事にしていて子供たちにそう言っていたんで。他にも毒があるから触っちゃいけんとか。」「でも毒はないんだろ?」「いんにゃ。毒はあるんだけど、それを水にさらして食べていたらしいよ。」とかんちゃん。猫の私から見ると、かんちゃんもなかなか物知りのように見える。

 「彼岸花はどうして新庄には少ないんだろう?何箇所かにほんの少しだけしかない。勝山には十数メートルにもわたって絨毯のようにいっぱい咲いているのになぁ。寒いからかなぁ?でも曼珠沙華とも言うし、この花好きだなぁ。6年も経ってやっと咲いたんかなぁ。でも球根を持って帰ってよかった。」と、かんちゃんは大いに満足しているようだ。そういえば私の巡回コースにも、このひがんばなは目に入らない。今度からもちょっと注意してみてみよう。(2001.9.17)

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