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山中一揆の経過



当時の年月日現代の暦でできごと
享保10年5月末〜8月1725年7月〜9月美作一帯は一滴の雨もない大干ばつ
享保11年初め津山藩は久保新平を勘定奉行にする。財政立て直しのため。
享保11年10月15日1726年 11月 8日いつもは11月25日(23日?)までに納めればよかったのに、この年は10月15日(10月3日?)を年貢完納の時期とする。(津山藩主松平浅五郎が幼少で長らく病床にあり、急逝があろうし、あれば天領になってしまうだろう。久保新平は一日も早く年貢を取り上げようとした。)年貢を納めるまで一切の麦まきを禁止された。86%完納。
享保11年11月11日1726年 12月 4日藩主浅五郎が江戸屋敷で死亡。享年11。藩主として享保6年〜。嗣子が無かったため御家断絶、改易となると予想された。
享保11年11月18日1726年 12月 11日津山藩主・松平浅五郎死亡の知らせが津山に届く。
享保11年11月21日1726年 12月 14日夜。大庭郡河内村の大庄屋・中庄屋ら3人が、西原の郷蔵の年貢米のうち自分らの取り分(先納分の御用金の返済分)を勝手に持ち出そうとする。このことが表面化し、一揆に発展する。
享保11年11月24日1726年 12月 17日徳川家康の次男・結城秀康(ゆうきひでやす,越前松平家宗家初代)以来の津山松平藩の家系が考慮され、江戸幕府から「緊急措置として松平浅五郎の従兄弟にあたる又三郎=松平長煕(まつだいら・ながひろ,10歳、初代津山藩主・松平宣富-まつだいら のぶとみ-の弟・白河新田藩主松平知清-まつだいらちかきよ-の三男)を第3代藩主として後継ぎとし相続させる」という知らせが津山に入る。藩を存続させることができた。しかしいわゆる末期養子であったために、罰則として藩の石高は10万石から5万石に半減された上、幕府における待遇、官位などにおいても以降冷遇されることとなった。久保新平が久世に出張中の役人・出九太夫(いで・きゅうだゆう)に久世の郷蔵から年貢米を運び出すことを命じる。
享保11年11月28日1726年 12月 21日役人・出九太夫は米を船積みしようとする。(改易になる前に大坂方面に米を売ろうとした。)監視していた農民に制止される。
享保11年11月29日1726年 12月 22日未明。舟が下る。藩への不信爆発。「12月3日に久世に集結する」ことを告げる天狗状が山中や付近の村々に回る。指導者は、仲間村牧分・徳右衛門、見尾村・弥次郎、日名田村(小童谷村)・半六、大森村・七左衛門・喜兵次の父子、土居村・忠右衛門の6名
享保11年12月3日1726年 12月 25日山中三触の農民3〜4000人が久世に集結。元禄4年(1691)の湯本・小童谷・三家の山中三触の人口は12,159人だから3〜4人に1人が、また三触の合計戸数が2445戸だから1戸に1〜2人が結集したことになる。"
享保11年12月4日1726年 12月 26日久世周辺の農民も次々と集まる。徳右衛門らが役人・九太夫と交渉。話にならず津山へ押し寄せようとする。九太夫「藩の正式代表が来るまで」と郷蔵を一揆の手に渡し、回避。
享保11年12月5日1726年 12月 27日

● 郷蔵から200俵の米を出し、久世の町に積み上げる。藩の御用商人、山口屋・塚谷屋など4軒の蔵元を支配下に置く。台金屋の大旦高下に結集し、次の行動について評定する。

決定事項
(その1)農民の要求
(1)当年の年貢米86%は納入しており、残り14%の免除(※1) 
(2)作付高に対し四歩加免の免除(※1)(※2)
(3)大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること 
(4)米以外の大豆納、炭焼き、木地挽き等の諸運上銀の免除 
(5)藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して,農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと 
(6)大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し,所帳簿を農民に渡すこと
をのませる。

(※1)「享保十一年在中騒動書」には
「・・・御年貢米、本途八歩六厘先達て遂上納候。相残る壱歩四厘未納、御免可被下候事。
一、四歩加免御免可被下候事。
と、納入分86%を「八歩六厘」と、増徴分を「四歩加免」といずれも「歩」が用いられている。
(※2)「4歩」を「岡山県大百科事典」は「年貢の四歩加免(4割増徴)」と説明。また「全集日本の歴史 第11巻 徳川社会のゆらぎ」(倉地克直著。小学館2008年)のP93には「作付け高に対して四パーセント年貢を上乗せする『四加免』を命じた」とある。小学館の書物では「」と表示されている。  
(その2)大庄屋・中庄屋を倒す。


久世の守りに一隊一の手(土居・大森・日名田・真賀の農民)
目木村大庄屋・福島善兵衛を襲撃二の手(新庄・田口・黒田・鉄山の農民)
中庄屋・忠次郎を襲撃三の手(目木・河内・樫邑・茅部・古見・赤野・田原の農民)
三崎村中庄屋・孫左衛門を襲撃夕刻。

藩の全権代表・大庭郡代官山田文八、真島郡三木甚左衛門が久世に到着

享保11年12月6日1726年 12月 28日夕方。代官たちを大旦高下に引き出し、団体交渉。西六触(山中三触と目木・河内・富触)の「願書」
享保11年12月9日1726年 12月 31日このころ、東筋で闘争が始まる。(この10日ほど、西筋平穏)
享保11年12月10日1727年 1月 1日このころまで続いた交渉で、(4)を除く要求が認められ、農民・代官は引き上げる。(4)の運上銀の免除は貧しい農民が一番要求したことであり、これが拒否されたことは、一揆の成果が半減されたともいえる。これに刺激され、美作全土に広まる。
享保11年12月12日1727年 1月 3日夜。東筋の小中原・綾部・川辺・一ノ宮・野介代・の5触が行動。
享保11年12月13日1727年 1月 4日日の出。一ノ宮六ノ塚に集結(2000人以上)
享保11年12月14日1727年 1月 5日三木・山田両代官は西筋並みの要求と大庄屋を辞めさせることで妥結。
享保11年12月17日1727年 1月 8日中筋の二宮・塚谷・院庄の三触1500人余が院庄中心に打ちこわし。
享保11年12月19日1727年 1月 10日中筋は三木・山田と妥結。藩はこの騒ぎのすべての責任を久保新平に負わせ牢に入れ、家財没収。このころ過剰米闘争が東筋から西筋へ広がり、再度西筋闘争が始まる。
享保11年12月21日1727年 1月 12日目木触の樫村、富触の西谷村・東谷村の農民が、大・中庄屋に納め過ぎの四歩加免と14%の年貢米の返還と、ここ数年の年貢帳簿の引き渡しを要求。庄屋は米切手を出し、しのぐ。⇒ 村々に広がる。三木・山田が米切手を出し妥協。
享保11年12月26日1727年 1月 17日徳右衛門の一隊が三家の大庄屋へ押しかけ260俵の米切手を獲得
享保11年12月27日1727年 1月 18日日名田の半六の一隊が小童谷の大庄屋へ押しかけ50俵の米切手を獲得
享保11年12月28日1727年 1月 19日見尾の弥次郎らは、川筋の農民1800人を率いて、勝山の庄屋・魚屋甚八から100俵、蔵元塚谷左市郎兵衛から大豆切手を現物に引き換える。徳右衛門ら2000人は新庄の福島屋を襲う。
享保11年12月29日1727年 1月 20日美甘の塚谷屋の出店を襲い、米150俵、鉄20束余を得る。状宿・状着を選出し、農民の自治の試みが実現される村も出る。
享保11年12月30日1727年 1月 21日両代官が山中三触に1800俵の米切手を出し、引き上げる。山中が天領になれば、津山藩の米切手は紙切れになると、米への交換に拍車がかかる。徳右衛門ら米切手を現物に換える戦いを組む。
享保12年正月2日1727年 1月 23日過剰米取り戻しの頭取は、牧の徳右衛門、見尾の弥次郎、日名田半六という、半六は頭取を致すほどの者ではなく、徳右衛門と昵懇のため頭取と申立てる。正月2日欠落し、行方知れず」(享保通鑑。幕府側の手によって書かれたもので、津山藩の情報をもとに記録されていると思われる)半六、伯州へ逃れる。
享保12年正月3日1727年 1月 24日藩首脳部の協議始まる
享保12年正月5日1727年 1月 26日三木・山田に「生殺与奪の権」が与えられ、武力弾圧を決議。
享保12年正月6日1727年 1月 27日山田兵内が率いる40名の鎮圧隊が久世に入る。湯本大庄屋・美甘三郎左衛門、小童谷大庄屋・宍戸喜右衛門、三家大庄屋・進五左衛門らと7日山中攻め込みを決定。農民800余人が三坂峠に集結(商人・小谷屋平兵衛の通報?)
享保12年正月7日1727年 1月 28日朝。鎮圧隊は出雲街道から美甘・新庄に向け出発。田口村で指導者・三郎右衛門、長右衛門の2人を捕え、夕刻新庄に入る。徳右衛門らは三坂から黒田に入り、500人を集結。
享保12年正月8日1727年 1月 29日

早朝。宍戸喜右衛門から知らせを受けた代官は、津山へ鉄砲増援隊を要請。

昼。代官、黒田へ行き、「逃げれば罪は問わない」と陽動作戦。夜。富触が塚谷の銀右衛門の裏切りで、代官・荒川唯右衛門の鎮圧隊に打ち破られる。

徳右衛門が休戦の申し出。大変な失敗となる。

新庄村の状着・利左衛門、美甘村の状着・治八は、代官の脅しと利益誘導に屈する。

津山から大規模な戦闘部隊。黒田方面、三坂方面、川筋(久世〜帰路峠〜山久世〜旭川上る)の三方面から攻める。大筒(大砲)三門を持つ一隊が久世到着。

享保12年正月10日1727年 1月 31日新庄村状着・利兵衛は逮捕され、偵察(スパイ)を条件に助命。
享保12年正月11日1727年 2月 1日美甘村状着・治八とともに、土居村の徳右衛門宿へ行き、その様子を三木代官に報告。久見河原の結集。徳右衛門の期待裏切る。大森の七左衛門の遅れ。一揆勢の動揺と脱落。
享保12年正月12日1727年 2月 2日

土居河原の結集。前日よりは多かったが、勢力足らず。

夜。三木・山田両代官は田口村の2人、新庄の3人を新庄今井河原で処刑。山中一揆最初の処刑が行われた。首切峠などにさらす。

夜半。代官たちは農民に案内させ、土居に潜入。土居の柿の木坂で徳右衛門ほか32人を捕える

享保12年正月13日1727年 2月 3日

朝。久世・新庄の鎮圧隊が山中に大筒の空砲で脅しながら侵入。32人のうち、25人を土居河原で打ち首。13人を三坂峠にさらす。12人を帰路峠にさらす。

徳右衛門、忠右衛門、喜平次は首謀者なので、そのままにし、4人を釈放。三世七原、次樽、奥山中の一揆勢(主力)が鎮圧される。

享保12年正月14日1727年 2月 4日徳右衛門と喜平次の2人は津山に護送。見尾の弥次郎も中庄屋の密告で弟の惣右衛門とともに捕えられる
享保12年正月15日1727年 2月 5日大森の七左衛門が捕えられる
享保12年正月16日1727年 2月 6日山中三触の小童谷・三家・湯本触の百姓は、惣百姓の連名で詫び証文を出した。
百姓側に従来の大庄屋・中庄屋制の存続を認めその支配に従います。年貢はもちろん諸借物もきっと払い、どのような命令も受けます。今後どのようなことにも違背しません。「不届人」を村方で尋ね出しからめ捕り代官へ引き渡します。
享保12年正月17日1727年 2月 7日弥次郎・忠右衛門・七左衛門が津山に送られる。
享保12年正月19日1727年 2月 9日下長田が破られる。
享保12年正月20日1727年 2月 10日最後まで抵抗した目木触・河内触が鎮圧される。3か月に渡った一揆の終わり
享保12年正月24日1727年 2月 14日半六捕えられる。「日名(田)半六伯州へ逃げるも、親類どもを悉く捕えられ、帰って来たところをお縄についた。親類どもは残らず御免とした。」(作州津山御領分在中騒動記)伯州とあるが詳しい地名は不明である。子孫への言い伝えでは、竹内流の関係で大山寺とも言われている。
享保12年正月25日1727年 2月 15日湯本大庄屋預かりの8名が、湯本下河原で処刑。熊居峠にさらされる。
享保12年閏正月1日1727年 2月 21日薬王寺ら4寺、刑の寛大な処置を願う。
享保12年閏正月2日1727年 2月 22日西筋里方の指導者7名が久世河原で斬首。村々の農民は「今後このようなことは絶対にしません」と詫び証文をとられ、四歩加免以外は認められず、取り返した米も返納させられた。状宿・状着の制度は廃止し、庄屋制が復活
享保12年閏正月3日1727年 2月 23日半六、津山へ護送
享保12年閏正月29日1727年 月日津山藩はこの日のほか、2月27日、28日、3月23日の4回にわたって国元と江戸で、足軽・小役人から物頭クラスまで366人に暇を出す。ただし彼らには享保12年分の知行と翌年分の知行半額が与えられたという。(「作州津山御領分在中騒動書」)川上村史P368
享保12年2月10日1727年 4月 1日半六、御赦免(所払い)。「一家並びに大庄屋の嘆願につき12人を村預け、元河内触田原村喜八等、小童谷村 不明」(三木代官手記)とあり、小童谷村の下は空欄となっている。護送に半六の名があるから、半六と判断するが、理由は不明。嘆願により髪をそり、所払いにより赦免となったと思われる。
享保12年3月3日1727年 4月 23日新庄村状着・利兵衛再逮捕。
享保12年3月12日1727年 5月 2日

津山送り27人のうち6名が正式の裁判により処刑

徳右衛門、弥次郎は津山を引き回しの上、院庄の滑川の刑場において、磔になった。

院庄の説明板には巨魁の徳右衛、弥次郎、富東谷村の與七郎、東茅部村の七左衛門、土居村の忠左衛門、東茅部村の喜平治と5体の首無し地蔵の説明がある。しかし、名前は6人分書かれているし、「山中一揆」資料にも<打ち首>東茅部村(現・川上村)の喜平次、土居村(現・湯原町)の忠右衛門。<獄門>富東谷村(現・富村)の與七郎、東茅部村(川上村)の七左衛門。<磔>見尾村(現・勝山町)の弥次郎、牧村(現・湯原町)の徳右衛門。以上6名とでている。

享保12年3月14日1727年 5月 4日

最後の御赦免は新庄村状着・利兵衛。正月10日に新庄村状着・利兵衛は逮捕され、偵察(スパイ)を条件に助命。11日美甘村状着・治八とともに、土居村の徳右衛門宿へ行き、その様子を三木代官に報告。この情報のもと、13日未明徳右衛門ら32人の逮捕に至る働きをしている。

享保12年春1727年月日

享保11年の年貢は享保4年とほぼ同額の5万2千3百石を収納しており、毛付け高の58%に達している。四歩加免を免除しただけで、本年貢のうち14%は、12月22日付けの回答を破棄して上納させている。(「享保十一年在中騒動書」。「四歩加免の程は御容赦」とある。)

東北条郡綾部触の中庄屋・下津川村の又四郎の残した記録によると、四歩加免は春になって返米された。受持村のうち、公郷上村(現、加茂町)は、毛付高(本・新田畑)597.225石、「四歩加免上り米」はその4%、23.889石であった。一揆鎮圧に要した諸役人の出張経費が領内総割で課され、この村は2.629石を納入した。高100石当たり約4斗の割合であった。これは加免返し米の内で払ったので、差し引き21.977石を村内各戸へ割り戻した。しかし未納の村もあったので触内で相談し、絶人が出ないように、秋までこの加免返し米を未納分に充てて当座をしのいだ。(「万手日記覚帳」)以上川上村史P365〜366参照。四歩加免を「4%」としている!!!