山中一揆義民之碑〜徳右衛門の碑(写真スライドショー)
いまから250数年前の享保11年の秋から翌年にかけて 時の津山藩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)と圧政に耐えかねて 農民の生命と生活を護るため 藩全域の農民によって繰り広げられた一揆を山中一揆といいます。
山中というのは 現在の真庭郡のこのあたり湯原町を中心とした旭川の上流地域のことです。この一揆がこの地方の名をとって山中一揆といわれるのは 先頭に立って指導的な役割を果たしたのが、山中の農民であり、藩が一揆を鎮圧するために集中的に山中に軍勢を投入したからです。
山中一揆は幕藩制解体初期の全藩的一揆の代表的なものです。
この一揆の指導者は、牧の徳右衛門、見尾の弥次郎たちで、久世の大旦芝に4千人ともいわれる農民を集結させ、藩の代官との数日間に及ぶ交渉の中で、年貢は一部免除、四分加免の免除、村役人の罷免などを藩側に認めさせました。
しかし、やがて藩は武力鎮圧に踏み切り強大な戦力をもって山中に進入しました。指導者を始め参加者の主要な者は打ち首などの死罪になり、51名もの多くの犠牲者を出しました。
この義民の丘は柿の木坂といわれ徳右衛門が捕らえられたところであり、前の旭川の河原では51名の犠牲者中25名の真っ赤な血が流されました。
昭和60年5月 山中一揆義民顕彰会(以上、説明板による)