山中一揆で五十一名もの百姓たちが処刑されて一周忌に当たる享保十三年に建てられている「萬霊・道標」です。今から見ると湯原に出るにも大山に行くにも主要道とは異なっている脇道のような感じも受けます。目立たないような脇道にひっそりと供養のために建てられたのでしょうか。道標としては、美甘の方向は示されていません。湯原と美甘との間にこの萩原地区があります。江戸時代に造られたこの万霊塔・道標への思いはどうだったのでしょう。
萩原の万霊塔・道標の位置については山中一揆史跡を地図で辿る~GoogleMapで御覧ください。
この万霊塔には昭和57年5月2日に山中一揆義民顕彰会が発行した「山中一揆」の冊子に載っていながら、2018年9月まで確認することもなしに過ごしていた。冊子に載っていた写真では開けたところにあるようだからいつでも見ることができるだろうくらいに思っていた。しかしいざそれを確認して上記の山中一揆史跡を地図で辿る~GoogleMapに載せようとしたところ、場所がわからない。今の道そばにあるくらいに思っていたからだ。地区の方に聞いてもよくわからないと。そこで、義民顕彰会で長年尽力されてきている植木紋次郎さんに場所を尋ねに行くと、快く教えてくださり、石碑に刻まれている文字についてもメモを見せてくださった。
植木さんからの場所のメモを頼りに改めて現地に向かう。ただそこは水田へ通じる道からは山となり、桧や竹が茂っている。山の斜面を木につかまりながら登ると少し平地になっていた。そこには求めていた万霊塔があった。写真の石碑下部は拓本をとるために文字を覆っていた土を少し取り除いたところです。
道標の周りはかなり草にも覆われているがヒノキの中ということもあってかそれほど大きな草にはなっていない。左の大山方面、右の湯原方面への道はかろうじて確認できる。湯原方面へは竹が茂り、枯れたものが折り重なって先へ進みにくくなっている。
道標の案内からすると大山方面に続く道へ少しだけ進んで振り返ったところ。この道標には大山(蒜山)方面から来た人への美甘方面の案内は刻まれていない。
3と同様にして湯原方面に進み振り返ったところ。道標から20mくらいのところで竹が折り重なって倒れており、先に進めなかった。同様に美甘方面への道案内はない。「湯原町の石仏・石造物」(2005年3月発行)では「高さ 137cm」となっている。
石碑の下部はヒノキの落ち葉や土に覆われていたため拓本をとるために土を少し取り除いてみる。やはり土に埋没している文字があった。自然石なので表面は凹凸があり、また昨日までの雨と林地の中で石碑自体が湿っており、拓本の紙を固定するためのテープが着かず少し困った。石碑の幅が狭いのでテープで巻くようにして固定してみる。紙の上から水で濡らしたタオルで湿らせていく。その上から布を当て、ブラシで石に密着させ、拓本用の墨をタンポで根気よくつけていく。
萬霊碑の周りには明治頃のものか、六地蔵と地神、さらに数段に組まれた石碑(半分折れて文字を探すことができない)などを見ることができた。
六地蔵のうち一体は何かで前に倒れていた。写真を撮ったあと立てておいたが台座との関係で不安定は感じがした。
風雨にさらされ損壊も見られるお動の中に小さなお地蔵様が一体。
上の石が半分折れて倒れている方に文字が刻んであるのか?確認できなかった。