5月に寺山を総代の皆さんと見て廻ったことを、寺報の14号に書いています。その中で山を登っている途中に私が迷子になりかけたことを、書きました。私は10数年前、学校の近くの山に遠足で生徒を登らせるために事前調査ということで、一人で山に登りました。校歌の中に出てくる山ということで生徒たちに一度登らせて見ようと計画したのです。登るのに楽なことはなかったのですが、国土調査か何かで尾根はきれいに笹などの草刈ができていました。上へ上へと頂上を目指して登って目的を達成しました。登って一休みしてから下りはじめました。ところがです。下りはじめるとまもなく、同じような2方向に別れるところが出てきました。このときは頭が真っ白になりました。登るときはなんとも思っていなかったのに、尾根が分かれている。

考えて見れば当然です。頂上は一つ。その頂上へ登る道はたくさんある。その数だけ下る道もあると言うことであり、もと来たところにたどり着けるかどうかはわからない。不安を抱えながら、確かこんな木が転がっていたとか、こんな景色が見えたとか、そんなあいまいなことを頼りに降りていったものです。どんどん下に下って行って平地が見えはじめるとほっとしながらも、こんなところと違うことに気づきました。でもそこからまた上にあがって道を探すという気力もなく、なんとかなると自分を納得させて降りたものです。案の定、自分が登り始めたところから100mも離れたところに下りていました。でもそのくらいでよかったのでしょう。

今回もその時の記憶がよみがえりました。何気ないちょっとした行動で、山の頂上を極めて、「ここは子どものころ遊びに来たことがある。」と思い出す。防空監視哨ですか?子どものころに比べてずいぶん小さな穴になっていました。私の方が大きくなっているからそう思えるのでしょうが。懐かしさが道を迷わせたのです。

法要のあとでこのような山で迷子になった話ばかりではいけませんね。そろそろ本論に移ります。本論の方が短く説明も不十分で皆さんを迷子にさせるかもしれませんが、迷わないようについてきてください。

仏教の世界では、私たちは「三界さんがいを流浪する衆生である」というふうに言われます。「三界」というのは、欲界・色界・無色界むしきかいの3つの世界のことです。「欲界」というのは婬欲(いんよく)と食欲の2欲を持つ衆生の住む六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の6種)の世界。「色界」とは、先の2欲は離れた清浄なる世界で、殊勝なる物質(色)の存在する世界。ヒツジグサこの界の衆生はもろもろの欲望を離れて男女の別なく光明を食とし言語とする。「無色界」とはその物質をもはなれた精神的な世界で、物質の存在しない世界。身体とか宮殿などの質的なものがなく、受・想・行・識という4つの構成要素(蘊)のみからなる世界。その最高の境地が「有頂天」と言われる。法然上人は、自力ではこの三界を迷っていてそこから出離することのできない凡夫が、煩悩を断じなくとも、阿弥陀仏の願力によって極楽浄土に生じ、迷える三界を離れることができるのが往生浄土の教えである、と説かれたのです。

南無阿弥陀仏を唱えることにより、極楽浄土へ迎えていただき、そこから決して再び迷える世界に堕落しないことを、阿弥陀仏は約束してくださっているのです。お盆で多くのご先祖の仏様たちをお迎えし、そして16日は仏送りをします。お勤めの最後でも「請仏随縁還本国」とお送りしました。私たちもいずれにか往生を遂げ阿弥陀仏のお膝元に、迷うことなく導いていただけます。そしてそこは退くことのない不退の浄土なのです。目的地の極楽浄土にたどり着いたら、下界に降りることもないし迷うこともないのです。

阿弥陀仏の誓いをよく噛み締めながら、終わりにもう十回の念仏を唱えて終わりといたしましょう。